Their Finest Hour -歴史・ミリタリー・ウォーゲーム/歴史ゲーム -

歴史、ミリタリー、ウォーゲーム/歴史ゲーム/ボードゲーム

「DUNE」を対戦する[前段]プレイ前に原作小説や映画の話とか

アメリカのSF作家フランク・ハーバート原作「デューン/砂の惑星」を題材にしたマルチゲームを対戦することになりました。

原作小説は古いSFファン、ハヤカワSF文庫フリークであれば知らない人はいないのではないかと思います。早川書房より「砂の惑星」シリーズとして出版されていました。また今回プレイしたゲームは古くはアバロンヒル社から販売されていて、往年のタクテクス誌の裏表紙の広告などを覚えている方もいらっしゃるかもしれません。

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上が1979年にリリースされたアバロンヒル社版の「DUNE」、下が今回プレイする2019年版です。どちらもサンドワームがフィーチャーされていますね。

ゲームの紹介にはいる前に小説の話とか映画の話とかを少し書きます。

 

小説の話~ハヤカワSF文庫版への恨みつらみとか~

原作小説の和訳版は早川書房から出版されており、アメリカで熱狂的なファンがついている作品という触れ込みだったので、30年ほど前ですが、原作シリーズの1巻目(日本版は1巻目が4冊に分冊されていました)を読みました。下にカバーを紹介している、矢野徹訳、石森章太郎イラストというものです。

が、これが全然おもしろくない。
登場人物が多く、しかも名前が覚えにくい。世界設定が複雑という側面はありましたが、文章がパラパラしていて、ストーリーが全然頭に残らないのです。第1巻目にあたる日本の文庫4冊についてはなんとか読み切ったのですが、シリーズの次作にはとうてい手を出す気力はありませんでした(ちなみにシリーズは全6作とのことです)。本国での作品の評判と和訳版とでここまで落差があった小説は本作と「指輪物語」くらいです。

当時は、矢野徹の翻訳文がいまいちで、さらに石森章太郎の全然そぐわないイラストが興を邪魔したのだと考えていました。

 

今回ゲーム実施の調整のやり取りの中で、矢野徹訳はいまいちだったのではないかという意見については他からも得られています。

ただ新たに読もうとする方はご安心ください。現在早川書房から出ている本作は別の翻訳家による新版になっています。新版を読むとこれまでの印象は変わるのかもしれません。当方について言えば残念ながら新訳版に手を出すだけの気力と時間はないです。

なお矢野徹の名誉のために言うと、同じく翻訳を担当したハインラインの「宇宙の戦士」あたりはそれほど苦にならずに読めましたし*1矢野徹自身が書いたSF小説「地球0年」あたりも嫌いではなかったので、決して彼が紡いだ文章が読みにくいとかそういうことではなかったのだろうとは思います。まぁ決して上手な書き手とも思いませんが・・。

 

ハヤカワSF文庫版の印象を著しく落としていたのはカバーイラストや挿絵にもありました。石森章太郎によるものなのですが、これが全くというほどストーリーの雰囲気にそぐわないのです。下手なイラストなら無視すればいいのではないかという話もあるのですが、本作について言えばどうにも邪魔しているようにしか思えませんでした。

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ハヤカワSF文庫の初期のラインナップには、藤子不二雄松本零士、また本作のように石森章太郎などがカバーイラストや本文中の挿絵を担当することが少なくなかったようです。こうした漫画家がカバーや挿絵を担当した作品でも、松本零士が担当したC.L.ムーアの「ノースウェスト・スミス」シリーズや「処女戦史ジレル」シリーズ、中でも「シャンブロウ」(邦題は「大宇宙の魔女」だっけか?)などは松本零士独特の妖艶な美女が描かれていたりして、印象的で、原作の持つ雰囲気や作品にプラスαの魅力を加えていたように覚えていますが、残念ながら「砂の惑星」は逆パターンだったということでしょう。
*2

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砂の惑星」1冊目の最初のあたりにあった挿絵。主人公と誰かの決闘シーン。こんな当時の少年誌の絵のようなものを差し込まれるくらいなら、挿絵無しのほうがずっと良い。

下は松本零士による「シャンブロウ」の挿絵。

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映画の話

「DUNE」は2回映画化されています。他にもTVシリーズになっているのもあるようですが未詳です。

1回目の映画化は1984年、監督は「ツイン・ピークス」「エレファント・マン」「ブルーベルベット」など独特の映像美でカルト的人気があったりするデビット・リンチです。主役はカイル・マクラクラン。本作が映画初主演だったようです。
内容は全く印象に残っていませんが、上に紹介した石森章太郎が書いた決闘シーンは映画にもあったのを覚えています(たぶん)。

メインテーマはまぁ当時少し聞きました。 


Dune soundtrack - Main title

 

 2回目の映画化作は2020年公開予定だったのですが、コロナのため翌年まで延期になっています。トレイラーがアップされていましたので紹介します。


Dune Official Trailer

見た感じ正直言うと退屈です。場面場面が点描されたイメージビデオのようになっていて、どういう作品なのかこれだけではよくわかりません・・。また音楽も退屈に感じました。

監督はドゥニ・ヴィルヌーブ。「ブレードランナー2049」の監督だったりします。あー、って思いましたが口には出しません。

 

 

 新版のイラストはカッコ良くなってますね。これで安心して読めそうです。

デューン (字幕版)

デューン (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

1回目の映画化のほうです。ゲームを研究する上ではさっぱり役にはたたないのかとは思います。惑星の雰囲気と一部の勢力の能力は描かれているかもしれません。

 

*1:ただハインラインの後期になるに従ってだんだん分厚くなっていった頃の作品で矢野徹が翻訳を担当した作品は読みにくいものがちらほらあった覚えがあります・・。翻訳小説の場合、元の原作自体が面白くなかったり難解だったりしているのか、または翻訳の段階で発生した問題なのかはわかりにくいですね。

*2:ちなみに藤子不二雄はジェイムスン教授シリーズあたりを書いていたのですが、これはプラスでもマイナスでもなかったかなぁ・・。

大河ドラマ「太平記」29話「大塔宮逮捕」:後醍醐帝はなぜ実子である護良親王を切ったのか?

前回のあらすじ

関東の抑えとして鎌倉に出兵する案を後醍醐帝に奏上するべく参内した足利尊氏真田広之)を、三位局(阿野廉子原田美枝子)とその取り巻きである公家達が邪魔をする。自分の派閥に協力し政敵である護良親王へ対抗するのであれば、尊氏の案が却下されないように事前に根回しをしてやろう・・と。

尊氏は「自分は取引はせぬ」と再度取次ぎを願い出、後醍醐帝(片岡仁左衛門)の前で直言する。
最初は怒り、「北条氏のように鎌倉に幕府を開くつもりではないか」とまで言う帝だったが、尊氏が理をもって説き、鎌倉への出兵は許される。

新政は開始半年で早くも綻びを見せ始める中、一色右馬介大地康雄)の尽力により、”ましらの石”(柳葉敏郎)の元に美濃に土地を与えるという綸旨が下る。右馬介は、藤夜叉(宮沢りえ)に”石”といっしょに美濃へ行くべき、と勧める。

護良親王堤大二郎)とその派閥は、後ろ盾であり良識でもあった北畠親房近藤正臣)が奥州の任地に行ってしまい、一方で敵視する足利が鎌倉鎮守を任される中、自らの政敵である三位局が足利尊氏と手を結んだと誤解し、「足利討つべし」と暴走を始める。
諸国に密書が行き兵が京に集められる。

事態の急に六波羅を訊ねた佐々木道誉陣内孝則)は、新政の先は見えたので、この機に乗じて護良親王を討ち、天下を取る下地作りをするべき、尊氏に説いた。

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陣中の椿事

1334年秋、足利尊氏の台頭をおそれた護良親王は反足利勢の軍を集め、応じて足利も六波羅周辺に軍を集める。京内に軍勢が満ち、一触即発状態となっていった。

前エピソードがだいたい1333年10月の北畠顕家の奥州出兵から同年12月の足利直義の鎌倉出兵までを描いていたため約1年後といったところ。
「開戦前夜」と題されていた前エピソード段階で既に「足利討つべし」と息巻いていたことからすると、1年に渡って反目状態が続いていたという事でしょうか・・。

六波羅には佐々木道誉や足利一族側の高師直らが詰め、軍議の最中。護良親王側についた各勢力の動向などの報告が寄せられていく。
楠木正成殿の動きがとんとつかめぬな。」
「関東勢は動かぬとの報せを岩松殿から受けています。」
「・・高みの見物ということでござろう」
概して護良親王側は参陣したものの様子見だったり戦意が低い勢力ばかりの模様。

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緊張状態の中、市中に陣を張った部隊から、楠木正成の御台と嫡子一行を捕らえたという報告があがってくる。

 

捕らえられたのは楠木正成の河内から上京してきた正室久子(藤真利子)と嫡子正行。

「せっかく戦が終わりましたのに、我殿は国へももどらずお勤めのため都に居続けておられます。」と正直に話をする正子。
言うと止められるので正成を驚かそうと、正成に黙って訊ねてきたが、道に迷ってしまったという。常々、正成が手紙の中でも褒めている尊氏に会えたと言っては喜び、「・・ようやく都にたどりついた心地がいたしまする」とまで言う久子。

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「よき人質になる」と主張する高師直に対して尊氏は自ら、一行を楠木正成の邸に送り届けると言う。

牛車を借り、公家の行列を装う尊氏一行。
「御殿(おんとの)はいつも牛車に?」久子が聞く。
「それがしも初めてでござりまする。・・そも牛車は公家方の乗り物。・・お公家と見せかけねば矢を射掛けられまする。このあたりは敵の陣ゆえ、油断がならぬのです。」久子、正行とともに牛車に乗った尊氏が答える。
「敵?御殿の敵にござりまするか?・・この都に?・・そは何者にござりまする?」訊ねる久子。

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「このあたりの敵は楠木正季殿。・・それがしには5歳の嫡子がござりまする。登子という妻もおりまする。戦が終わっても会えぬままです。それがしも早うこの都に皆を呼びたい。だが戦が全て終わり、世が穏やかにならねばかなわぬことじゃ。」
穏やかな口調で答える尊氏。
「御殿は戦が嫌いでございまするか?」正行が尊氏に訊く。
「戦は嫌いでござる。」
「父上と同じでござりまするな。」正行の言葉にうなずく尊氏。

正行はこの時9歳であった、と。さらに後に尊氏と戦い、20余年の短い生涯を遂げると語られる。

訊ね来ていた久子・正行一行が足利勢に囚われ、さらには足利から楠木邸に送り届けてきつつあるという報告にあわてたのは楠木正成の陣。
足利を迎え撃つと息巻く家中の者達に、正成が言う。
「正季にも伝えよ、わが楠木党は宮にもつかぬ、足利にもつかぬ。ワシの命に背いて戦を起こすものは、成敗いたす!」

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久子・正行一行を届けた尊氏と正成が対峙する。
「・・何を望んでお運び下された?」訊ねる正成。
「明日の戦に楠木殿の援軍を賜りたく・・」
「ほほぅ、それがしが足利殿の味方に?うーん、この楠木、どちらの陣にも味方はせぬ。同心はせぬ、その事はようおわかりのことかと存じおったが・・」
「お逃げになるのか?・・どちらにもつかず、この都が戦場となり灰と化すのを、黙って見過ごされるのか?・・さてさて楠木殿ともあろうお方が、先の見えぬ話じゃ。」
「足利殿に味方致せば、この都は灰にならぬとでも?」
「戦を止めてみせましょうぞ。その議にてお話いたしたく、まかり越したる次第。」

 

正成は尊氏に言う。
帝から与えられた豪奢な邸宅などは惜しくはない。
帝から御所を守るように言われ、河内の国司としてのまつりごとを任された。いささか荷が重い。
「・・だが、北条一門に邪魔されることなく市場の交易ができる。河内をこの手で建て直せる。これは夢のような話じゃ。・・こんな館は焼けてもよい。じゃがこの夢は手放しとうはない。
難しいまつりごとなどワシにはわからぬ。じゃがこう思うのじゃ、北条の世より帝の御代のほうがワシ等にとってははるかに良い。帝の御代を壊そうとするものがあれば黙って見過ごせぬ。
「ではなおのこと・・」
「京の街を戦に巻き込みたくはない。足利殿の仰せの通りやも知れぬ。
・・ただこう申すものがおる。足利殿は鎌倉に再び幕府を作らんとしておる。北条に化けるつもりよ、と。河内や大和のものはみなそれを怖れておる。」
「・・3年前、楠木殿は仰せられた。『戦は大事なもののために戦うものじゃ』と。『大事なもののために死するは、負けとは言わぬ』と。尊氏、これまでそれにならって戦こうて参りました。それがしは己のため、私利私欲で戦こうたことはござらぬ。しかと申し上げる。その事、楠木殿もようご存知と思うておりましたが・・
尊氏の応えに腕組みする正成。

後に(とはいってもさして遠くない先に)足利尊氏楠木正成は袂を分かつことになりますが、目指すものは同じながらもそこに至る道筋ややり方が違ったとでもいうのでしょうか。
この後、二人の運命が分かれていく様子がどのように描かれていくのか楽しみです。

 

非常呼集

翌早朝、京の有力武将に対し、六波羅奉行所足利尊氏より非常招集が掛けられる。呼集に対しまず楠木正成が従い、他の武将も応じた、と説明される。
前エピソードで描かれた評議から、元北条方の二人(二階堂道蘊、大佛某。史実では二人ともこの時点で既に処刑されている)を除いたような面々が集まる

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なぜか佐々木道誉の姿は見えず、また”結城”、と呼びかけられている人物がはいっています(結城勢はこの頃、奥州?)

「今、諸国は新しきまつりごと、北条の残党などにより揺れ動いておる。かく言うそれがしも近々紀伊の国にて騒ぎよる残党を鎮めに向かう次第。かかる折、洛中にて戦を企てるとは言語道断。もし都で戦を致せば、天下は乱れに乱れよう。いやぁ、恐るべし恐るべし」尊氏の説明に続いて口火を切ったのは、楠木正成
「いや、いかにも!」正成に促されるように同意する名和長年小松方正
「方々のお心も皆、同じと心得えましてござりまする。かかる上は方々のお力添えを得、戦の企てを断つ覚悟にて候らえば、ご異存ござりませぬな。」
尊氏がきっぱりと言う。
「あ、いや、待たれよ。我らが力添えをいたすとはいかなることじゃ。」
これに新田義貞根津甚八)が口を挟んだ。
「それがしに従ごうていただき、戦の張本人を都の外に追い払ろうていただく。」
尊氏が答える。
「足利殿に味方せよ、と仰せか?」
「いかにも」
「そういたしたいのはやまやまなれど、それがしは武者所にあい勤める。足利殿の命を受けるのは筋違いではなかろうか。」
「左様、そは奇妙な申されようじゃ。」脇屋義助石原良純)が横から口を出す。
「はて、武者所も都の中にある司。都が灰となって何の武者所ぞ。この足利は帝より都の護りを命ぜられし、左兵衛督。都に事あらばそれがしに従ごうていただき、帝の御心を鎮め奉るのが筋と存ずるがいかが
尊氏もいつになく強硬かつ突っ込んだ物言いをする。
「さりながら御辺の申される戦の張本人は誰あろう、護良親王あるぞ。宮には宮の思し召しがあってのことでござろう。その御方に立ち向かうは恐れがましい。」
新田義貞も引かない。
「宮の思し召しとは、いかなる思し召しじゃ?たとえ宮であろうが、都に火をつけるは、帝とてお許しになるまい。それを見て見ぬ振りをするのも許せぬ。
共に立てぬお方はお帰り召すが良い。止めは致さぬ。」
きっぱりと言い切る尊氏に誰も座を立たない。

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「下にも理なり。事は急を要す。ここは我らが心を合わせ足利殿の元、都の護りに断つべきやと存ずるが。」すかさず正成が言い、
「御一堂いかがでござる?」と答えを求める。
「新田殿、皆、こう申しておる。此度は足利殿に従ごうてみてはいかがじゃ?」
最後に新田義貞に返答を促す。
「ではご異存ござりませぬな。」尊氏の締めの言葉に、正成が仰々しく平伏して見せ、新田義貞脇屋義助以外の諸将もあわせて伏し、しばらくあって最後に新田兄弟がそれにならった。

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呼集した諸将の解散後、残った正成と尊氏。
「・・帝の恩命により近日中に紀伊飯盛山に出陣仕ります。北条の残党が相当手強い由、しばらくの間、都を空ける事にあいなりましょう。・・なにとぞ、帝と都をよろしゅうお護りくだされ。しかとお頼み申す。」と正成が言い残していく。

 

逮捕

護良親王が本陣を置いたのは二条にある神泉苑
「みな逃げたのか?」
有力な武将が足利尊氏に従ったという情報に護良親王方に参加していた諸家の軍は引き、宮方の陣はもぬけの殻となる。
新田兄弟の軍勢も六波羅に移動していくという報せに
「新田も寝返ったかっ!」と叫ぶのは”殿の法印”(大林丈史)。

「叡山じゃ、この護良にはまだ叡山の兵がある。叡山に使いをやり、鞍馬口まで兵を進めよ、と。
足利め、ついに正体を現したわ。武家を率いて、公家を潰し、朝廷に力を奪うて、天下を狙う腹じゃ。これで帝も麿の思いがおわかりになったであろう。なぜ身が足利を敵とみなしたのか、を。
戦じゃ、戦じゃ、武家共と合戦じゃ。」

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あとのセリフに護良親王神泉苑に立てこもっているというものがでてくることからすると、この時の宮方は二条周辺、一方の足利方は六波羅があった五条から七条あたりまでのところに陣取っていたと想像される。
足利尊氏が、楠木正成の妻久子らを届けたのは、御所に近い(とこれもセリフにある)楠木正成邸なのでこれは二条。二条あたりは宮方の勢力圏にあったということだろう。

 

内裏では名和長年が状況を阿野廉子に報告する。
「・・宮におかせられては、神泉苑に立てこもりになり、叡山の兵を巻き込み、洛中にて戦のおつもりか、と存じまする」
あさましや、さほどまでして己を帝に見せつけたいか?この恒良を押しのけなんとしても次の御位が欲しいのじゃ。心底は見えておる。のぅ、伯耆守(名和長年のこと)」
「まことに醜き、宮のお心根。伯耆も心痛む思いでござりまする。」
ついてはこの事、帝に内奏仕ろうと思うが、どうじゃ?
人心は既に宮を離れ奉った旨、奏上されてはいかがかと・・。

一挙に政敵である護良親王の追い落としを謀る阿野廉子とその取り巻きの一人である名和長年

 

都に初雪が降った日、古式に習い宮中で開かれた初雪の宴を開くとの帝のお召により、護良親王が参内する。
宮中で雪を見るなど何年ぶりであろう。「雪がいつ降り、いつ止んだやら、とんと覚えぬこの幾年じゃ」と言う護良親王名和長年が率いる兵が囲む。
「帝の御命でござる。ご叡慮でござる。」名和長年が言う。逃げようとする護良親王は兵や官僚に取り巻かれる。

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「偽りを申すな、帝は身の父であるぞ。これが父のご叡慮か!帝!帝はいずこじゃ!」取り押さえられながら叫ぶ護良親王

 

護良親王の叫びが聞こえたのかどうか・・内裏の奥。
「真にこれでよろしゅうござりまするか?御上。」阿野廉子が後醍醐帝に訊ねる。
「朕の思案の末じゃ。これでよい。都を戦から救うにはこうする他あるまい。朕の名を使うて諸国の兵を集めたとも聞く。我が子のためにまつりごとを揺るがすこともいかぬ。朕は帝ぞ。

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親王の身柄を預かることについて名和も結城も恐れ多いと辞退した、一方で身柄の奪還に動く勢力があるかもしれないという阿野廉子に対し、
足利に委ねるがよい。あれほどのものじゃ。よもや宮を殺しはすまい。のぅ、廉子。
・・名和に伝えよ。宮は足利に委ねよ。それが朕の命、都を鎮める道じゃ、と」
言い残し立ち去る後醍醐帝。

 

対面

六波羅奉行所奥に閉じ込められた護良親王足利尊氏が訪ねる。
明かりも火もない暗闇の中に鎮座する護良親王
足利尊氏にございます。かかる仕儀と相成り、さぞやこの尊氏をお恨みでござりましょう。申し開きもござりませぬ。・・宮は北条討伐の道を我らに示し賜うたお方。こうしてお目にかかるは、おそれがましゅう。胸塞がる思いにござりまする。」
「奇妙じゃのう。これは帝のご意志じゃという。子が道を間違ごうたというのなら、なぜ帝ご自身の手で殺さぬ?なぜご自身の敵に子を渡す?足利とてこうして麿を預けられれば、殺すに殺せまい。
「怖れながら、尊氏は宮を害し奉るつもりはござりませぬ。また帝の敵と思うたこともござりませぬ。帝もまた足利を敵と思し召されているとは思いませぬ。此度の議は、一重に都の安寧を思し召されての事。」
「今はのぅ、しかしいずれそちは武家を集め、幕府を作る。しこうして帝と戦う。・・今はそうは思わぬが、そちは武家の統領、源頼朝の血を引くものぞ。武家がそれを望めば、帝に抗し奉り、幕府を開かんと欲するであろう。
いや、そちにはそれだけの器量がある。それ故、殺しておきたかった・・。
今日はよう冷える。望むと望まざると麿は帝の子、そちは武家の統領。それ故、相争うた。・・そして負けた。虚しい・・限りじゃ・・。

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今までの狂気がはいったような言動は影を潜め、尊氏へ言葉を返す護良親王。己を一番知るのは己の敵といったところか。

翌日、宮は鎌倉の足利直義の元に送致された、と語られる。

 

感想

後醍醐帝がなぜ身内の護良親王を切ったのか?
調べるとこのあたり色々と説があるようです。手軽なのでここでもよく引用したり参考にしているWikipediaですが、記事によって書いた人が異なるためか、書きぶりが色々異なるようです。いろいろな説があるんだよ、って書いている記事はまだしも、どれかの説を色濃くした内容だったりするとその記事だけ読んじゃうとそのように理解しちゃいますよね。

ともあれ、

このドラマでは足利尊氏大河ドラマ主人公補正を受けた無謬の人であり、後醍醐帝と楠木正成もそれに準じる扱いを受けています。
一方の護良親王は足利憎しの思いひとつで暴走したかのように扱われていますし、その周囲には”殿の法印”とか脇屋義助楠木正季のように直情径行の熱血バカしかいなかったように描かれています。

阿野廉子護良親王が次の皇位を巡り反目状態にあったのは事実でしょう。護良親王自身は第3皇子にすぎませんが、それでも倒幕に功があったのは事実です。それが、まだ年端もいかない阿野廉子の産んだ皇子のほうが皇太子と言われて反発しない訳がありません。

護良親王足利尊氏と反目していたというのも自然かと思います。ドラマの中で描かれているように、一方的に護良親王側が敵愾心を嵩じさせ、足利尊氏側は因縁をふっかけられていたような関係というよりも、軍事勢力として互いに反発しあっていたといったところでしょうか。
鎌倉幕府以来の最大規模の御家人である足利と、僧兵集団や元弘の乱以来の楠木勢や赤松勢を従えてた護良親王率いる宮方は、新政下における2大軍閥であったのではないでしょうか。

阿野廉子からすると帝からの寵愛だけでは立場が弱く、いつ自分の子の立太子が取り消されるかわかりません。護良親王に対抗するために軍閥である足利尊氏と結ぶことは利点が大きかった、尊氏からしても阿野廉子を通して後醍醐帝との繋がりを強めるメリットは大きい・・。日本史ではすぐに思い浮かぶところはないのですが、中国の王朝史を見てみると、皇帝の后が後継を巡って外部の軍閥と結んで・・という展開はあったように思います。

ドラマで尊氏は「(帝の)周りのものと取引はせぬ!」とカッコ良く言い放っていますが、護良親王が邪推したように、阿野廉子足利尊氏との間で取引があってもおかしくないのではないと考えます。

後醍醐帝は、尊氏も無条件にその権威に伏するような、唯一無二の存在のように描かれていますが、実際は直卒する軍事力はない以上、天皇としての権威こそあるものの、もう少し立場は弱く、足利・阿野廉子連合と護良親王の対立が進行する中では、どちらに寄って立つべきかというところにまでなってしまったのではないかと考えました。

このあたりは後醍醐帝がどのような帝であったかという話にもなってきますが、本当に、原作「太平記」にあるような独裁的な強大な権力を持ちえていたのかどうか?その権力基盤は何に依っていたのか?ってことになってきます。

最終的には後醍醐帝は、足利・阿野廉子連合に寄った訳ですが、何を契機にそうなったのかはよくわかりません。
ドラマでは護良親王が”器量がなく”、ニセ綸旨を出すなど自分が帝を代わらんかのような振る舞いをしたり、さらには足利を討つべしと敵愾心を嵩じる余り暴発しようとした等、親王側だけに原因があるかのように描かれていますが、実際は、二大勢力は反発しあった状態が続いていて、足利・阿野廉子連合側が護良親王をはめたのかもしれません。なにかよくわかりませんが、なにかのきっかけで、後醍醐帝は足利・阿野廉子連合側に乗っかることにした・・と。

そうこう考えていくと無謬の人のひとりとして描かれている、今回のエピソードでは宮方にも足利方にもつかない楠木正成も実際はひとくせもふたくせもある、かなり生臭い人だったのだろうな・・と想像してしまいます。

ウィキをたどると楠木正成千早城などの籠城以来の関係である護良親王に近かかったとあります。
ドラマでは、楠木正成を無謬の人のひとりとする一方で、辻褄をあわせるためか、弟正季を護良親王派に残したのかなと思います。今回も「紀伊で起こった叛乱の鎮圧」のため出動するというセリフがありましたが、これも史実のほうは、護良親王派であった正成を京から離すための政策であったといった説明になっていました。

 

 

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征夷大将軍・護良親王 (シリーズ・実像に迫る7)

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大河ドラマ「太平記」28話「開戦前夜」:宮廷政治の洗礼、後醍醐帝への直言対決。さらには護良親王一派の暴走・・

前回のあらすじ

奥州で起こった北条残党による反乱の鎮圧には武家ではなく、公家の北畠顕家後藤久美子)が差し向けられた事は、武家の間で波紋を引き起こす。
後醍醐帝から「武家の束ね」と言われていた足利尊氏真田広之)は、足利家内や武家の間からの不満不平を一笑に付し、今は都の再建こそが使命と主張する。
尊氏は、都内の武家を集め会合を持つが、再建の話より遥か前の段階で武家の間にある派閥間の言い争いに終始し、破綻する。

弟直義(高嶋政伸)と関わりがあった不知哉丸が実は尊氏の隠し子であることが、直義や母清子に知れるところとなり、尊氏は数年ぶりに藤夜叉・不知哉丸の母子と再会する。

新政の混乱の中で恩賞と思っていた土地をもらうことができなくなっていた”ましらの石”は尊氏に新政の不満をぶつけ、また藤夜叉(宮沢りえ)は尊氏に「美しい世」を作って欲しい、それは尊氏の治世によるものと信じるということを言い、去っていく。

尊氏は直義を関東の抑えとして鎌倉に出すことを帝に進言しようと決心する。それは後醍醐帝の政治思想である「公家一統」(公家を通した帝による直接政治)に反する施策であったとしても・・。

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北畠の出兵

1333年10月、北畠親房・顕家父子が義良(のりよし)親王を奉じ政情不安な奥州へ派遣される。それは後醍醐帝の、公家を通して諸国を直接支配するという政治思想を反映した施策であった。

ところ代わって大塔宮護良親王の邸宅。

北畠親房護良親王の舅にあたり、北畠父子が奥州に行くことは、大塔宮派の人々からすると派閥の力を削がれることに通じ、それを画策したのは対立する三位局(さんみのつぼね:阿野廉子原田美枝子)派ではないかと捉えていた。

大塔宮派の荒ぶる僧”殿の法印”(大林丈史)が、先に開催されていた三位局の宴で白拍子と浮かれ騒いでいたエロ坊主 文観(麿赤兒)を呼びつけて叱責するというムジナ対ムジナのようなシーンからはじまる。

「宮を謀るなど身に覚えなく・・」と逃げる文観に対し、護良親王堤大二郎)が矢を射掛け、”殿の法印”が斬りつける、という物騒すぎてこれでは人心も離れるよという印象の主従。射掛けながら護良親王が吠える。

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愚かな局よ、我らは同じ公家ぞ。公家が公家の力を削いでどうなる。我らの敵は武家。足利じゃ!
あいも変わらず足利憎しで染まっている。

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宮廷政治の洗礼 

一方の尊氏は鎌倉と関東の治安を武家に委ねるよう帝に進言するべく参内する。

尊氏参内の件は後醍醐帝に伝わるより先に、千種忠顕本木雅弘)から阿野廉子に伝わるが、阿野廉子は帝には取り次がず佐々木道誉陣内孝則)を介して尊氏を自分の派閥に取り込もうと画策する。

道誉がそっと尊氏にささやく。
帝への献策は拒否されるとそれで決定されてしまうリスクがあるため、事前の根回しが必要。そのためにも、先に阿野廉子に会うべき・・と。

 

阿野廉子の御座に通された尊氏。
阿野廉子の脇には取り巻きの千種忠顕坊門清忠藤木孝)が控える。
「・・三位局、近江の武士は腰が軽うございますなぁ」尊氏と共に居た道誉を追い払い、鼻で笑う千種忠顕
「それに引き換え、東国の武士の腰の重さよ」継いだのは坊門清忠
「内裏へもめったに挨拶に来られず、六波羅に籠もって仕事ばかりをしておられる・・。身は未だ都の鎮守府将軍がいかなるお顔か、とーんと覚えませぬ。」と尊氏への皮肉を混ぜ、最後は局への追従笑いをする。

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「・・それ故、帝は足利殿を御気に召しておられるのじゃ。『今都で一番勤めに励んでおられるのは、朕と足利であろう』と御気色(みけしき)麗しくお笑いになるのじゃ。恐れ多いことよ。」二人を窘め、尊氏を持ち上げるかのような阿野廉子の物言い。帝のからの自分への評を聞いて、尊氏が顔を上げる。
が、続く千種忠顕は落としてくる。
さりながらこの忠顕、足利殿の働きにまだまだ不満がある。
「そりゃなにゆえ?」噂話でもするかのように、尊氏ではなく千種忠顕に聞き返す坊門清忠
この都に武家や悪僧を集め何かと無法な振る舞いに及ぶ宮がおられるではないか、あの護良親王をなぜ放おっておかれる?
千種忠顕坊門清忠も、尊氏を無視し、話を進める。
「それよ、聞けば宮は恐れがましゅうも、ここにおわす三位局の御嫡子恒良親王を亡き者にし、己が次の御位を狙わんと策謀いたしておるやに聞く。いと恐ろしき宮よ。我らは力が無い故、かかる噂を聞くにつけ、ただ、ただ打ち震えておるばかりじゃぁ。のぅ?足利殿」
二人の取り巻きの話を継いだ阿野廉子が、さも気持ち込めるように尊氏に言う。
「足利殿は妻子を鎌倉におかれたままとか。世情乱れたる折節なれば兵を送って守ってやりたいという慈愛の心、よーぅわかりまする。この廉子とて同じ。我が子がかわいい、なんとしても守ってやりたい・・。
我らはよーぅ似ておりますなぁー。似たものは手を携え、助けあっていかねばのぅ?

落としては上げ、落としては上げと尊氏の懐柔を図る阿野廉子ら。
「三位局、ご案じなされますな。足利殿は必ず我らに同心なされますと佐々木判官殿も申しておりました。」と千種忠顕
ならば足利殿、今日はこのままお帰りなされませ。鎌倉へ派兵の議、それとのぅ帝に奏聞いたそうよ。
明日また参内仕れ、悪しきことにはなりますまい。
最後は阿野廉子が締める。阿野廉子千種忠顕坊門清忠の三人にいいように言われ、ここまで一言も口を開かないままで終わった尊氏。

必ず思いは帝には通じると勢い込んで参内したものの、これが宮廷政治といった洗礼を受けた尊氏。根回し、派閥争いと懐柔、自派への勧誘・・

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「申さば、三位局の敵の護良親王を討て、そういう事であろう
帰路、佐々木道誉が尊氏に耳打ちする。
さすればこちらの望みを聞いてもよい、と。これは取引じゃ。悪い話ではござらぬ。
道誉の言う内容に、怒気を浮かべる尊氏。
ワシは取引は嫌いじゃ。取引できるなら・・・北条とは戦をせずに済ませたであろう。都を焼き払うこともなく、北条を皆殺すこともなく、こうして妻と子と別れて暮らすこともなく、もうちょっと安穏に暮らしたはずじゃ。ワシは取引はせず、安穏な暮らしを殺してしもうた。いまさら何の取引ぞ。
ワシはわからぬ事があるゆえ帝に拝謁したいと思うた。思うことがあるゆえ、帝に奏上したいと思うた。帝は我が主よ、何故、周りと取引せねばならぬ。
ワシは思うことを申し上げ、それが間違っておればそれを帝がお叱りになる。それだけの事ぞ。違うか、判官殿?
引き返す。

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政治的な遊泳をするべしと言う道誉に筋を通そうとする尊氏。
これぞ脚本家の勝利というべき論旨の展開、見事。

 

後醍醐帝との対決

道誉の物言いに腹を立て、踵を返し再び拝謁を願い出た尊氏。

さすがに当日中に二度も拝謁を願い出るとは思いもしなかったであろう阿野廉子一派があわてて集まるが、すでに尊氏は帝の前に伏していた。

「何、足利の兵を関東に送りたい、と?
尊氏、東国の守りは奥州へ送りし北畠では心もとないと申すか?
朕の定めし実に異議がありと申すか?
尊氏、直答を許す、近う参れ。

後醍醐帝の許しを得て御簾が上げられた玉座に近侍する尊氏。

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「北畠卿は当代一の学匠。その高潔なるお人柄もよう存じおりまする。されど東国は気性荒き地。加えて北条の残党による此度の叛乱にござりまする。卒爾ながら東国の戦を公家方の手で乗り切れるとは思われませぬ。」後醍醐帝の顔をしかと見据え奏上する尊氏。
「それ故、奥州の武家、結城宗広をつけておる。」
「その結城殿の御一門に、はや北条方につきしものがあまたあるのをご存知でありましょうや?東国にはいまだ北条に恩を覚え、事あらばと弓矢を離さぬものがあまたおりまする。そこへ公家方が参られ、『帝のご新政が・・』と申されても、耳傾けるものがいかほどござりましょうや。
奥州に火がつけば、関東に燃え広がるのは早うござりまする。新田義貞殿の鎌倉攻めを見れば、ようおわかりと存じまする。
関東に火が付けばこの都に火が飛んでくるのは必定。

結城宗広は陸奥国南部の武将。新田義貞とともに鎌倉攻めに参加、その後南朝側として戦う。「三木一草」に上げられる結城親光は宗弘の次男。
結城氏はこのドラマの中では簡略化のため省かれており、結城親光は登場しない。また結城宗広も名前が明確に上げられたのは今回が初めてだと思う。

なお遥か後年、戦国期に登場する結城秀康が継ぐ結城家は氏族は同じだが流れがかなり異なるところの模様。

「なれば問う、関東では朕のまつりごとは通らぬと申すか?公家一統に治まらぬと申すかっ!?
「左様に存じまする」
後醍醐帝の怒声に動じず応える尊氏。
「何っ!!」
さらなる後醍醐帝の怒声に尊氏ではなく周囲の阿野廉子や公家達のほうが縮み上がる。
公家方が相争い、武家もまた角突き合わせる。昨今の都のかかる有様を見ますれば、東国を一つに治めるなど、今だ遠い道かと存じまする。
一歩も引かない尊氏が応える。
「ならば言おう。公家の争いはたしかに朕の不徳の致すところ。なれど、武家の束ねはそちに託したはずじゃ。今の乱れを何と心得おるっ!
「申し開きもござりませぬ。されど武家は力あっての武家関東ひとつ任せられぬ武家に他の武家がなびきましょうや?
平に願い奉りまする。この足利に関東をお任せくださいませ。奥州の北畠殿と手を携え、東国を鎮め、帝の公家一統のまつりごとに、東国の民をなびかせてご覧にいれまする。
ありていに申せ、そちはこの都を捨てて、再び北条のごとく、関東に幕府を開く心づもりであろう?

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「それがしは天下を率いて立とうとは思いませぬ。」
「なにゆえじゃ?」
「天下を率いるのは肩が凝りまする。足利尊氏こうしておりまするだけでも、肩が凝ってたまりませぬ。今はなにかと強い事を申しまするが、真は性にあいませぬ。戦の折も、よう迷いまする。恐れがましゅう事でござりますがそれがしは、帝のようにたくましゅうはござりませぬ。人並みの臆病者にござりまする。
ただ此度の戦で多くの者を死なせましてござりまする。それに報いるためにも、「良い世」を作らねば、とそう願うばかりにござりまする。
「それは朕とて同じ思いぞ。
尊氏の申す通りじゃ。天下を率いるは肩が凝る。よろず己が決め、己が見るのじゃ。肩が凝る・・。
だが朕は行うべき実を行わなければならぬ。
関東へ兵を送る議、相許す。されどそちは都の護り、動く事、相ならぬ。鎌倉へは弟直義をつかわせ。それでよいかっ?

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「ははっ」
「・・そうか、尊氏も肩が凝るか・・。朕も肩こりじゃ。はははは」

 

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1333年5月、鎌倉幕府の滅亡【第22話】
同6月、  護良親王堤大二郎)が征夷大将軍に補任【第23話】
同8月、  叙位除目(=論功行賞)【第26話】
同8月、  足利高氏は後醍醐帝より偏諱を受け、尊氏となる【第25話】
同9月、  雑訴決断所ができる【第26話】
同10月、  北畠顕家鎮守府将軍陸奥守に任命され北畠親房近藤正臣)とともに、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ派遣、陸奥将軍府が成立。【第27話】
同12月、  足利直義成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。【いまココ】

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後醍醐帝と阿野廉子の二人。

「御上、何故お許しになられました。足利に関東を・・」
阿野廉子の物言いはどことなく自分らの執り成しをないがしろにした尊氏への怒気を含んでいるようで刺々しい。

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「足利は子を関東に置き、関東に布石を打っておる。許さぬと申しても詮無き事よ。そのほかに誰がいる?関東を守り、東国を守れるものが?
北畠と競わせ、東国を守らせるのも面白かろう。・・朕の新しきまつりごとには強き手足がいる。足利は欠かせぬ男よ。・・あれを敵にしとうはない。せめて護良が足利ほどの器量なればのぅ・・
後醍醐帝の尊氏に対する信頼が篤いのがよくわかる後醍醐帝の言葉に、阿野廉子も何も言わずにいた。

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護良親王一派の暴走

護良親王の前に集まったのは、四条隆資(井上倫宏)、”殿の法印”、新田義貞根津甚八)、脇屋義助石原良純)、楠木正季赤井英和)・・・。

「今宵、宴にかこつけ集うてもろうたのは他でもない。こたび足利は鎌倉に派兵致し、関東の主となりしことじゃ。」
これをどう考える?と話を振られた義貞が答えないでいると、次に脇屋義助を呼び
その方等が血を流して落とせし鎌倉は、足利は何の労もなく奪いさったのじゃ?・・・悔しいと思わぬか?」と焚きつけた。
悔しゅうござりまする。これで足利の企みは明白でござりまする。北条にとって代わり、鎌倉に幕府を開かんとするもの。いずれは朝廷に歯を剥く野心じゃ!」
直情径行の脇屋義助が言うなり、護良親王が叫ぶ。
「それよ!!その足利に。・・・事もあろうに三位局が肩入れをしておる。己の子を帝につけたいがため、足利を味方に引き入れ、取引致して、帝に鎌倉派兵の許しを請うたのじゃ。違うか、隆資?」

ドラマの中では足利による鎌倉への出兵は奥州や関東の鎮撫のためという流れな訳だが、戦功のありなしや公家に対抗する武家といった考えから脱しきれない護良親王一派は大局観もないまま、「本来、新田が治めるべき鎌倉」とか、「足利は北条のように幕府を開いて」といった偏った認識のまま内輪の論理だけで論を飛ばしていく様子が描かれる。

尊氏と酒を酌み交わした新田義貞が止めるべきなのだろうが、彼もまた、前エピソードの武家の会合で見せたような「公家対武家」といった考えから脱して無く、また政治感覚のなさから思慮もなく護良親王の一派に連なっているようだ。

もし護良親王一派に情勢の分析ができる人間がいるなら、尊氏から後醍醐帝への上申された内容から尊氏の考え方を読み取れるだろうし、また三位局(阿野廉子)が尊氏と取引をして尊氏に肩入れしているといった話はでてこないであろう。
親王の一派には高師直はいなかったという訳だ。

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・・足利が帝の勅許を得る直前、三位局と密談いたしておるのを見たものがおります。」
見よ!天を恐れぬ悪行。帝の心中を悩まし続ける悪しき取り巻き足利尊氏!三位局!これをこのまま放置致してよいものか?

護良親王の中では仮想敵とみなしている足利尊氏の幻想がどんどん膨らんでいくかのよう。

護良親王の言葉に、すかさず四条隆資が応える。
足利を討つべしと存じまする。
”殿の法印”も唱和する
「下にも、足利を討つべし!」

護良親王新田義貞を促すが、義貞は黙って頭を下げるだけだった。
「向こうにおる、武田、塩谷、宇都宮なども同心じゃ。隆資、これで足利を討つ兵は揃うたぞ。」
無言の義貞に構わず護良親王が続ける。
宮の密使も密かに諸国の土豪に送ってございまする。宮がお立ちになれば、1万や2万の兵はただちに近国から馳せ参じましょう。」
四条隆資が言う。
「新田殿、楠木殿、御辺等も2000や3000の兵はすぐさま集まりましょうな?」
”殿の法印”も威勢が良い。
「明日にでも4000、5000、集めてみせましょう!」と脇屋義助
「我らもじゃ!」負けずと叫ぶ楠木正季

ダメ弟二人の話はこちら

yuishika.hatenablog.com

 

「よう、申した!・・・戦じゃ、足利と戦じゃ!!
盛り上がる味方内からの声に、冷静な判断ができなくなった護良親王が叫ぶ。
まずは足利を倒すべし!
「おぅ!」一堂が唱和する中、新田義貞は一人黙ったままで思案げな表情を浮かべていた。

 

 「また戦じゃのぅ、どちらに転んでも同じ事なら、いっそ武家武家同士、足利殿に力添えをして、鎌倉の有力御家人になるという手もある・・」
二人きりになり、新田義貞に耳打ちをする岩松経家(赤塚真人)。
「ワシは誰の支配も受けたくはない。それ故、北条を倒した。ワシは今、帝をお守り致す、武者所の長。申せばワシを支配できるのは帝だけじゃ。それが心地よい。
・・新田の家は、北条や足利や他人の顔を伺って生きてきた。長い間、長すぎた・・。
ワシは宮にも足利にも従わぬ。戦をやりたいやつは勝手に戦をやれば良い。
勝手に戦をし、皆ボロボロになれば良い。
新田義貞は愚かな戦はせぬ。

岩松経家はドラマの中では新田義貞の親戚として、尊氏父貞氏の法要を足利庄で執り行った際から登場し、鎌倉攻めなど、新田勢のひとりとして活動している。

二人の密談の様子を伺っていた影に気づいた義貞が小刀を投げるが、影は逃げ失せた。

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新政の乱れ

1334年1月 年号が「建武」となる
大内裏の造営が発表されその財源として「二十分の一税」が発表されるが、戦乱続きのため応じる事ができるものは少なかった。貨幣の鋳造が発表されるが、実行されなかった、と説明される。
二条河原の落首に「・・このごろ都に流行る物 夜討 強盗 にせ綸旨召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)・・」に詠われる。

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「御上のまつりごとがあまりにも立派すぎて、下々がついていかれぬのじゃ。」
「かかる世情では先々、思いやられますなぁ。」と噂する人々。

 

ちょうど”ましらの石”の所に、美濃の塩山というところの代官の沙汰が下る。
実際は尊氏が一色右馬介大地康雄)に命じ、働きかけて下されたものだが、”石”は「帝がワシの事を覚えておられた。楠木(正季)が一言申し添えてくれたのだろう」と無邪気に喜ぶ。

「お二人も行ったほうが良い」と右馬介は、藤夜叉に言い、藤夜叉は足利が動いた事を悟る。

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一触即発

護良親王の館に兵が集められ、呼応するように足利も六波羅一帯に軍を集める。
情勢逼迫する中、六波羅の足利邸に佐々木道誉が飛び込んでくる。

「御辺は、今どのような時かおわかりか?戦じゃ、戦じゃ!」
「・・師直があちこち駆け回って兵を集めておるところじゃがのぅ。直義が鎌倉に半分持っていったがゆえ、ままならぬようじゃ。」
飛び込んできた道誉をいなすように、泰然と鎌倉の妻登子への文に手をいれる尊氏。
「ようじゃっ?、それでなんと致す。
敵は新田義貞、岩松経家、武田、塩谷、結城、宇都宮、加賀の”禅師”、土佐守兼光、そして楠木・・。これが皆、宮の号令をいまや遅しと待ち受けておるというぞ。
足利には誰がつく?」
焦りキレ気味の道誉に尊氏は平然と応える。
「判官殿が来られた。」
「他は?」
「無用じゃ。」
と尊氏は手元の菓子を道誉に勧める。
ワシはのぅ、戦はせぬ。今、戦をすれば都は灰になる。そは民も喜ぶまい。帝もお喜びにはなるまい。

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「じゃと申して、敵は来るぞ。」
「誰が来る?新田殿は宮から距離を置き始めた。岩松殿は内心こちらに顔が向いておる。塩谷、結城は帝がお許しになるまで動かぬつもりじゃ。加賀の禅師も土佐守もほぼ同じじゃ。
皆、本心は腰がひけておるのじゃ。
こちらが仕掛けねば、皆動くまい。
のぅ?右馬介」
いつの間にか後ろに控えていた右馬介がおぅと応える。尊氏の手回しの良さに笑う道誉。
「さりながら楠木正成殿はどうじゃ?護良親王とは河内赤坂城以来共に助け合い戦こうてきた仲じゃ。宮に頼まれれば動かざるを得まい。現にご舎弟、正季殿は動いておる。」
「・・動けば速い正成殿はお心が読めませぬ。」右馬介が言う。
「ようわからぬのは、正成殿だけか?」尊氏が訊く。
「あとおひとり、佐々木判官殿のご心底もしかと判じかねまする。護良親王の腹心”殿の法印”殿はこの数日、佐々木判官殿と幾度もお会いになり、足利との戦になれば、宮方につくとの言質を判官殿よりしかと得ております。」

またもや発揮される佐々木道誉の二枚舌。
先の鎌倉幕府末期の頃も、日野俊基北畠親房と親交を結んだり、後醍醐帝の護送時に便宜を働いたりしながら、長崎円喜等の北条家側の指示に従い尊氏の監視役を行っていた。
ここに来て、またもや、護良親王側とも渡りをつけていた事が暴露されたという・・

ただでは転ばぬ佐々木道誉、こう切り返す・・

「ワシはのぅ、この思うたのじゃ。ワシが宮方につくと申せば、宮方は勢いづく。遺産で宮はお立ちになる。宮がお立ちになれば、御辺は立てぬ。いくらなんでも宮を相手に足利た仕掛ければ、世のそしりを受けようと思うてのぅ。それ故、御辺がやりよいように動いてみたのじゃ。」
「ワシに戦をさせようと」
宮がいては都はまとまらぬ。この機に乗じて宮を打ち、天下を取る下地を作るべきかを存じて
「天下をとる?」
帝のまつりごとをご覧じよ。先は見えておる。
武家はのぅ、誰一人とて腹の底から、公家の天下を喜ぶ者はおらぬ。その事がこの判官にもよう見えてきた。
御辺が公家に勝てば、皆御辺になびく!

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感想

前半の宮廷政治劇から後醍醐帝との対決、さらに後半の護良親王一派の暴走へと非常に見どころの多いエピソードだった。

全編に渡って脚本家により紡ぎ出された論理展開の見事さに圧倒された(さっと見ていると聞き逃してしまいますよ)。

最初は阿野廉子一派による尊氏の取り込み工作。尊氏が宮廷政治の洗礼を受けたようなものだが、本来は危急を要する外憂への対処であるはずが、この宮廷内の人達に掛かっては自分たちの勢力争い・政治の材料として使おうという阿野廉子一派の振る舞い(この人たちはそれが習性なので、少しも不思議とも思っていなかったのではないかと推測されるが)に尊氏が翻弄される展開。
だが尊氏はそれに屈することなく、阿野廉子一派を権威とも思わず、真正面からぶつかることで突破する。
口利きを匂わせて一度下がらせたはずの尊氏が、同じ日のうちに再度帝への拝謁を願い出るなど、宮廷人の仕振りとしてはありえないと、阿野廉子一派は思いもよらなかったのだろう。

尊氏と後醍醐帝との対決も見応えがあった。
本音を言い合うことで逆に承認を得ることができた。
素地としては後醍醐帝の尊氏への信頼があったためだが、正しき事を行う尊氏らしい行動であり、後醍醐帝との一連の問答は説得力のあるもので見応えがあった。

 

さらに護良親王一派がこの一連の動きを部外者として見つつも、その考え方が宮廷政治の作法の中でしか捉えることができずに、阿野廉子一派と尊氏がつるんでいるといった大きな誤解をする。さらには足利を仮想敵とする幻想をどんどん膨らませ、それに伴い自分等の行動を暴走させていく様。

さらにこの護良親王一派の暴走に泰然とした姿勢を保つ尊氏。
あわてて飛び込んできた盟友?佐々木道誉の慌てぶりと、最後は道誉の二股を暴く始末。どこまで本気はわからないがラストは道誉が逆に尊氏を焚きつける展開に至る。

 

 

 

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大河ドラマ「太平記」27話「公家か武家か」:なぜ足利尊氏は後醍醐帝の新政を見限ることになったのか・・これがこのドラマが次に描いていくテーマ

前回のあらすじ

新政建立にあたって功があった公家と武家に対し恩賞が出されるが、その不均衡や評価をめぐり悲喜こもごもが起こる。

阿野廉子原田美枝子)の取り巻きが厚遇される一方で、阿野廉子に対立する護良親王堤大二郎)のグループは冷遇される。

足利尊氏真田広之)は地位と名誉は与えられたものの知行はあまり増えず公家の間では「足利なし」と噂され、一方の新田義貞根津甚八)とその一族は多くの役職を得ていた。

北畠顕家後藤久美子)には奥州鎮撫の任が下り、その父親房(近藤正臣)も後見として奥州へ赴くこととなった。

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武家の務め

1333年秋、奥州で発生した北条残党による乱の鎮圧の命が陸奥国司北畠顕家後藤久美子)に下るが、従来であれば武家が担ってきた軍事領域を公家が担当することについて、武家の中で反発や議論があがったと説明される。

足利家内でも尊氏の弟直義(高嶋政伸)が、家中から突き上げられそのままを尊氏にぶつけていた。
「兄上、人が良いにもほどがござりまするぞ。奥州の残党狩りは鎌倉の足利勢を差し向ければ、こと足りまする。なにゆえ北畠殿の出陣をお飲みになりました!?
「北畠殿は陸奥の国の国司に任じられた方ぞ。奥州を鎮めるのは国司たる北畠殿の勤めであろう。」尊氏はきっちりと直義に反論するが、直義は続ける。
「・・・朝廷の腹は見えてくる。我らが再び鎌倉に幕府を開き、東国を支配するのを怖れておるのじゃ。我らの先手を打ち、奥州に東国支配の幕府を開く。すなわち帝の皇子を将軍に、北畠殿を執権に、北条一族がやったことをこたびは公家がやろうとしておるのじゃ。」
「たとえ公家衆がそう思われても、帝がそれをお許しになろうとは思えぬ。」

誰かに幕府を開かせることを後醍醐帝はやらない、ときっぱり言い切る尊氏に直義は
「なにゆえ!」と訊ねる。
「帝はこう仰せられた。武家の束ねはこの足利尊氏に命ずる、と。」
「しかし現に帝は北畠顕家殿に東国の武将たちを付け、奥州に遣わしになる!
兄上は帝にたぶらかせれておるのじゃ。」
「直義、口がすぎようぞ。」
「直義だけの意見ではござりませぬ。足利一門みなそう思うておりまする。」
「よう聞け!武家よ公家よと意地を張り合おう時ではない。・・この都は我らが巻き起こした戦で焼けただれ、いまだ雨露しのげぬ子や女子やらが巷に満ち溢れておる。ワシは帝よりこの都を任せられたのじゃ。その者たちに家を建て、食べ物を与えねばならぬ。そは帝とて同じ思いであらせられよう。武家の力を結集し、まずこの都を立て直す。それが我らの第一の務めぞ。」

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1333年5月、鎌倉幕府の滅亡【第22話】
同6月、  護良親王堤大二郎)が征夷大将軍に補任【第23話】
同8月、  叙位除目(=論功行賞)【第26話】
同8月、  足利高氏は後醍醐帝より偏諱を受け、尊氏となる【第25話】
同9月、  雑訴決断所ができる【第26話】
同10月、  北畠顕家鎮守府将軍陸奥守に任命され北畠親房近藤正臣)とともに、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥へ派遣、陸奥将軍府が成立。【いまココ】
同12月、  足利直義成良親王を奉じて鎌倉へ派遣され、鎌倉将軍府が成立。

このシーンや続く都下の武家を集めた会合シーンはセリフばかりのシーンなので流してしまいそうですが、じっくり見るとけっこういろいろな事を含蓄しています。

新政と後醍醐帝の目指す政治、また尊氏の目指したものなどをきちんと説明しようとすると、ドラマではなく『その時、歴史は動いた』のような解説を挟まねばならないでしょう。そうでなくとも結構な時間を取られそうな部分です。
舞台となった時代設定が戦国時代や幕末のような視聴者の共通認識に頼ることができるような時代であれば、さらりと描くのもありなのでしょうが、本作「太平記」が扱う時代はメジャーではありません。まして、戦前の足利尊氏を逆賊として扱った水戸学史観の影響・印象もある中、描き方は非常に難しい部分だったように思います。

そう、なぜ足利尊氏は後醍醐帝の新政を見限ることになったのか?という新たなテーマ部分です。

さらにややこしくしているのが、このドラマにおいて足利尊氏大河ドラマ主人公補正」が掛かっていることです。ここまでドラマの中で尊氏は悪辣な事を率先して実施するようには描かれてきていません。”悪辣なこと”を行うにあたっては、そうせざる得なかったという状況を作ってから行うような筋運びになっています。
今回のこの場面でも後醍醐帝の施策に怒るのは、足利家家中の者達であり、直義です。尊氏が後醍醐帝の施策に怒ったり、不満を口にすることはありません。

このドラマの脚本家は、この親政の施策が進んでいく中で、尊氏がどのようなスタンスで後醍醐帝の新政に向き合っていたのか、またこの後、それを裏切ることになるのかを、丁寧には説明しようとしているのですが、仔細に見ていくと今のところ、やや苦しい部分があるように感じました。
今回の尊氏の言う都の立て直しという説明だったりします。もっとも武家の力を結集して立て直しをしようとする尊氏の試みはあえなく潰えるのですが・・(次のシーン)

少し話を戻します。

後醍醐帝はドラマの中で、「延喜・天暦の治」を理想の政治と口にしており、これは律令を元にし、家格ではない本人の実力による人事と、天皇による親政を行うこと、と帝本人の口から言わせています(第26話)。
後醍醐帝は、帝に代わって政治を行う関白・摂政といった人は置かず、また鎌倉幕府に許した征夷大将軍に幕府を開かせるといったことも想定していないのです。

また後醍醐帝は「公家一統」という言葉も頻繁に口にしています。
公家による政治を指し、武家の出番はなさそうです。今で言うシビリアンコントロールと言った所でしょうか。後醍醐帝が公然と言っていることからすると尊氏も聞いてないはずはないと思われます。

北畠顕家による奥州鎮撫はこの「公家一統」の流れからすると武家ではなく公家に指示が下るのは道理ということでしょう。直義が、武家の領分を犯したと言うのも当然の措置のように見えます。

ただ、公家一統政治という後醍醐帝の目指している目標について、今の所、尊氏は何もコメントしません。

尊氏はセリフの中で、帝から”武士の束ね”になれ、と言われたと主張しています。ドラマの中でもそういうシーンがありました(第23話)。
”武士の束ね”の裏付けとして”征夷大将軍”という官職がある訳ですが、これは現時点、護良親王が補任されています。

今回、直義からの疑義に対して尊氏が言った、「・・武家の束ねはこの足利尊氏に命ずる、と。」というセリフは言外に、自分は武家に対する”号令”を掛けることができる立場にいるんだ、と言っているように聞こえました。

たまたま陸奥国の件は北畠顕家に指示が下ったが、武家全体については”この尊氏が一番よ”と言いたかったかと推測します。
ただこの”武家の束ね”も結局、尊氏以外の武家は承知している訳ではないということが次のシーンが描かれ、尊氏は打ちのめされるのです。

呉越同舟

尊氏は、都の武家を集めて復興を巡る協議を行う。協議には大塔宮護良親王派、阿野廉子派、また元北条方など多彩な顔ぶれが揃った。

ざっと見渡すと・・
大塔宮護良親王派としては、新田義貞、その弟脇屋義助、同親族岩松経家
阿野廉子派からは、名和長年
元北条方からは、幕府滅亡後降伏した、二階堂道蘊、大仏高直
他にも楠木正成楠木正季佐々木道誉

(まだ座には人が並んでいますが顔がよくわからないので判別できませんでした)。

尊氏による本会合の趣旨説明の後、さっそく口開いたのは名和長年小松方正)。
「朝廷の公家衆はこの寄り合いのことを聞き及び、さては足利殿は北畠殿の奥州支配を案じられ、武家を束ね公家に楯突くつもりじゃと、色めき立っておりまするぞ。」

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名和長年は、後醍醐帝の隠岐脱出とその後の船上山籠城を主導し、”三木一草”のひとりとして重用された人物。”三木一草”のひとりの楠木正成が尊氏の心情にも心を寄せる中立で純粋な尊王の士として描かれていることと比較すると、このドラマに登場する武家の中で、私欲を隠さない一方で最も後醍醐帝に近い位置を占め、尊氏への対抗心を抱える人物として描かれてきた。

「この脇屋義助、北畠殿の奥州派遣には我慢ならぬ!」
続いて勢い込んだのは新田義貞の弟脇屋義助石原良純)。周囲からの賛同の声があがる。

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「待たれよ!」変な流れを断ち切るように尊氏が言う。
「今日、お集まり願ったのはその議についてではない。」

「さりながらこれだけは申しておかねばならない。我らが北条と戦ったのは、公家の支配を受けるためではない。」
新田義貞根津甚八)が釘をさしてくる。義貞に向けた尊氏の顔には足をすくわれたような表情を浮かべている。

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「では何故に新田殿は大塔宮に媚へつろうておるのじゃ?」すかさず新田義貞への皮肉を口にする名和長年

名和長年隠岐島の以来の由縁にて阿野廉子と近い。阿野廉子と対抗する大塔宮護良親王に与する新田義貞は対抗勢力の一員ということだろう。

「なにっ!」名和長年の言に義貞が憤然とするが、佐々木道誉陣内孝則)が口を挟む。
「名和殿、そのような言い方はござるまい。名和殿とて、三位局(阿野廉子の事)や千種忠顕卿にへりくだって、伯耆国の守護となられたではないか?」
ことさら”へりくだって”という部分を強調する。

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佐々木道誉もまた隠岐島以来の因縁にて後醍醐帝や阿野廉子と親しいため阿野廉子派閥を思いきや、今日はやや距離を置いた物言いをしている。

「へりくだったとは何事じゃ! 名和長年隠岐を出で賜うた帝をこの背に負い奉り、船上山の高き峰に這い登って、功を尽くした、その忠義により守護を賜ったまで。」
名和長年が得意の講談調の語り口で自分の功を誇れば、
それを申せば皆、忠義は致しておるのじゃ。」道誉が混ぜ返す。
またもや周囲から道誉の意見への賛同の声や、公卿への悪言があがる。

騒然となった座を止めたのは楠木正成武田鉄矢)。
「今日は都で家を失のうた者に家を建ててやることについてじゃ。のぅ、足利殿・・。
ご一堂、まずはこれをとくとご覧じよ・・・」
と正成が手元から取り出したのは砂金で膨らんだ袋3つ。
それがしの館に出入りする堺の商人が、この都の市場に綿と油の店を出したいと申しておる。便宜を図ってくれれば、その儲けに応じてこれを寄越す、というのじゃ。そういう輩から金を取って、家を建てるというのはどうじゃ?

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「なるほど、都に店を出したがっている商人は数多おる。それらから口入れ料を取って、都を建て直すか。さすがは商いに強い楠木殿よ。
利に聡い佐々木道誉が賛同する。

「のぅ?」道誉の誘い言に、「おう、そは良い案じゃ」と応じる尊氏。

楠木党はこのドラマの最初の登場シーンから淀の津の水利を抑え近畿一円の流通を抑えていたと説明されている。同様に近江守護であった佐々木道誉は琵琶湖を中心とした水運を抑えていた可能性が高くこうした経済や商売への感度の高さは、東国出身の足利党や新田党には比較にならなかったであろうことは容易に想像できる。

「ならぬならぬ、都の市場は代々出入りを許された油座や綿座の商人がいる。新規の商人を入れることは騒動になるぞ。」鰯漁と商売で財を成したとされる名和長年がすぐに言う。
「市場は誰にもつかわせればよい。」と正成。
「そうはいくまい。都の市は代々公卿が司り、新規の商人を入れぬ代わりに座の商人から莫大な上前をハネてきた。
名和殿はその旨味に乗っておられると申すしのぅ。」またもや道誉が混ぜ返す。
「なにぃ!」
「市は皆が自由に使えば良い。そのために我らは北条と戦こうたのじゃ。公卿の支配なぞ受けぬわ!」商売の観点よりも公卿憎しの意見を言う義助。

末座より高笑いをあげたのは二階堂道蘊(北九州男)。
「御辺らは公卿の命を受けて北条を滅ぼした。もともと御辺らは公卿の下人ぞ。」
「黙れ!北条の残党!」義助が憎々しげに言う。
これには黙っていた、二階堂と同じ北条党の大仏高直(おさらぎ)(河西健司)が反論する。
いかにも我らは北条の残党よ。その残党をつかわねば、御辺らには法も作れぬ、まつりごとも進まぬ。そのような事だから公卿に侮られるのじゃ。

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激昂した義助が北条党の座へ手元の膳の皿を投げつける。

二階堂道蘊は鎌倉幕府内の評定などにおいて僧形でめだっていた人物。
「十万の兵を預けてもらえれば、楠木正成など捻り潰してみせましょう」などと威勢の良いことを言っていた。
大仏高直は北条一門、故に字は北条。その大仏流の一人。
なお鎌倉幕府健在の頃の最初の鎮西派遣(尊氏も出兵したがサポタージュを働いていた)の際の総大将であった大仏貞直はその一族。こっちは鎌倉の戦いで戦死している。

この二人、鎌倉幕府の滅亡後、剃髪して(二階堂道蘊はもともと僧形)新政府に降伏したがセリフで言っているように行政や法執行の機関運営に必要ということで助命されていた模様。だが後に相次ぐ北条残党の反乱などの中で北条一族根絶やし施策として二人とも斬首されることになる。

なお二階堂一族は行政官僚として室町幕府でも重用されていく。

 座は騒然となり、会合は破綻した。

 

会合の後、膳や皿が散乱する中、床に散らばった豆を拾い食う高師直柄本明)。
六波羅を倒し、鎌倉を倒した時は皆こうではなかった。変わったのぅ?
師直、なぜだ?」上座に残ったままの尊氏が問う。
「やはり、公卿は公卿、武家武家で暮らしたほうがよいのです。この都では公卿は武家を下人としてしか扱いませぬ。かつて源頼朝公が京を離れ、鎌倉に武家だけの国を作られたのは故があるのでござりまする。

おそらくこの会合の根回し調整などを行ったのは高師直と思われ、それが無残にも破綻したことを誰よりも残念に思っているものと思われる。

師直の描写の中で備えられた菓子を盗み食う様子の描写があったり今回の豆の描写など、吝嗇家?らしいところが見える描写が面白い(今後、どのような伏線になるのか?)

楠木正成が商人からの口利き税の話を持ち出した際の尊氏の表情からは、そのような発想はなかったとばかりの驚きが読み取れた。武家の頭領とはいいつつも経済や商売の領域は強くはないことが伺える。

冷徹な高師直は続ける。
武家はこのままではバラバラになりましょう。奥州の武家達も北畠殿の指図を嫌ろうて北条の残党方に付くかも知れませぬ。せっかく倒した北条が、東国で息を吹き返さぬとも限りませぬ。

「そうなっては鎌倉が危ない。」
「御意。今、若殿を鎌倉よりこちらに動かし奉れば、足利は東国から逃げたと笑われましょう。
「さりとて、ワシはこの都を、守らねばならぬ。鎌倉に駆けつけとうても、それが叶わぬ。
帝は何故、何故、北畠殿を奥州へ・・・戦は武家にお任せになればよいものを・・」
それ故、以前から申し上げておりまする。帝は雲の上のお方。そのようなお方に武家の心はわかりませぬ。

ようやく直義や高師直達がこれまで尊氏に上申してきた事の次第が理解できた模様の尊氏

「師直、関東の守りは我らが手を尽くさねばならぬ。鎌倉にワシは行けぬまでも、直義かそちが軍を率いて鎌倉に参ることはできよう。
直義とこの議、話をしてみようぞ」

 

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不知哉丸

足利直義高嶋政伸)の屋敷に遊びに来ていた不知哉丸は熱を出しそのまま屋敷で一夜を明かしていた。

不知哉丸の看病をしていた尊氏・直義の母清子(藤村志保)は、目が覚めた不知哉丸から母親の名を聞き、
「鰻売には似合わぬ名じゃのう?」と言いつつも、猿楽舞を職とし、都に来る前は三河の一色村、その前は伊賀に居たと聞き及び、不知哉丸が尊氏の隠し子ではないかと思い当たる。

ちょうど鎌倉出兵の件で直義の屋敷を訪ねきた尊氏と不知哉丸は廊下で鉢合わせし、そこで尊氏は不知哉丸の名と藤夜叉の名を聞くのであった。
外に藤夜叉達が現れたと告げる使いの声に駆け出す不知哉丸だが、病み上がりのため尊氏の腕に倒れ込む。そのまま床へ連れて行く尊氏。
「足利の大将が命ずる。病の折は、動くでない。」

清子は直義に告げる。
直義殿、あの子は尊氏殿の子じゃ。亡き大殿より密かに打ち明けられたことがある。伊賀に尊氏の子がおると。気にはしていたが。おらぬものと思うてうち過ごしてきた。・・ああ、あの子は我が孫ぞ。不知哉丸はそなたの甥じゃ・・」
驚きの余り一言も発せられぬ直義。

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帰ってこない不知哉丸の行方を案じた藤夜叉(宮沢りえ)は、”ましらの石”(柳葉敏郎)に不知哉丸の行方を探してくれるように頼んでいた。

ましらの石”が市中を探し歩いているところへ具足師龍斎姿の一色右馬介大地康雄)が現れ、藤夜叉と不知哉丸を知らないか、と訊ねる。右馬介はこちらはこちらで、三河の一色村に匿っていた藤夜叉親子が行方不明になったため訪ね探していた。

不知哉丸が足利の大将と連れ歩いていったと目撃者から聞いた藤夜叉は”ましらの石”と右馬介と落ち合い、直義の屋敷に向かう。

 

庭に通された”ましらの石”と藤夜叉。
現れる尊氏。尊氏に突付かかる”石”。
「・・左兵衛督(さひょうえのかみ)とやらは都の争いを鎮め、民を守り、良い都を作るものじゃ。
ところがこの都を見てみぃ。武家と公家が入り乱れて争い、盗賊、火付け、乞食(こつじき)、家のない者みーんな野放しじゃ。左兵衛督が笑わせるわ。
武家の頭領じゃと言うたのぅ?」

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「・・龍斎さんよ、ワシがなぜ楠木党を辞めたのか教えてやる。楠木の殿様はこの戦はよい世を作るための戦じゃと仰せられたのじゃ。それゆえワシも北条を倒すために戦こうた。ところが戦が終わったら殿様は、ワシの嫌いな足利と仲良う公家の番犬に成り下がってしもうた。・・」
日野俊基からもらった書付けを袂から取り出した。
「・・帝の綸旨がなければダメだとぬかす。帝はどこぞの公家にこの畑をくれてやった後じゃという。
ワシは今まで何のために何のために戦を・・。
我主が武家の頭領ならワシに代わって帝に申し上げてくれ。これが日野様の仰せられた良い世の中なのですか、とっ!」
と書付けを地面に投げつける。

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奥から出てきた不知哉丸を抱き、藤夜叉が言う。

御殿に申し上げまする。我が子不知哉丸は名もなき魚売りの子、名も無く生き、名も無く消えていくものにござりまする。どうかお戯れに情けをおかけになされませぬよう・・。
お気遣い無くともこの子は丈夫でござりまする。山猿のように放って育てました故、薬いらず、医者いらず、風邪など治ってしまいまする・・。」

”石”が不知哉丸を背負い、立ち去る3人。

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「・・わたくしは、御殿がお治めになれば、この都は美しい都になると、そう思うておりまする。戦のない良き世をお作りになると・・。そう思うております。
と最後に言い残す藤夜叉。

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”石”が捨て残していった書付けを見ながら、尊氏が右馬介に命じる。
「・・この日野殿の領地の事、しかるべきものに調べさせよ。あの男が申した事がまことなら、別の領地を探し、与えてやれ。」

 

別室で尊氏が直義に言う。口調はどこかさみしげだった。

「あの母子は右馬介に任せてある。どこぞの子をかわいがるなら、魚売り以外の子にしてくれぬか。
ふっ、兄の勝手な頼みじゃ。
勝手ついでにもうひとつ。そなたの申すとおり、東国の守りはお公家に任せきるのは無理やもしれぬ。そなた、ワシの代わりに軍を率いて鎌倉に下ってくれぬか。戦が関東に飛び火いたさぬよう、鎌倉で目を光らせて欲しい。」
それは奥州の北畠殿へのあきらかなあてつけになりまするぞ。武家が公家の向こうを張って東国を守るのじゃ。帝は許されましょうや?
「東国が乱れれば、再び都も火の粉を浴びる。備えは万全が良い。帝にその事を強う言い、お許しを得る。おわかりいただけるはずじゃ。」
うなずく直義。
「東国が鎮まれば、後はこの都じゃ。この都をどう治めるかじゃ。」

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感想

尊氏が心情的に打ちのめされる回と言ってよいかもしれません。

都の再建を自分の使命と武家を集めるも、意見の対立から話が進まず、進まないどころか資金の供出元の案を持ってきた楠木正成を除いて、誰も都の再建など眼中にないようで、互いに対立するばかりです。

いくら自分は後醍醐帝から「武家の束ね」を頼まれたと主張しても、誰も聞きません。その上、その後醍醐帝も奥州の乱の鎮圧は北畠父子に任せてしまっています。武家に対する示しも、また重みもない虚しい位にすぎないと気づいたのではないでしょうか。

 

「美しき世」というのはドラマの最初期の頃からのモチーフになっている言葉で、尊氏はずっとこだわり続けています。かつて鎌倉で出会った日野俊基にそれを言われ、醍醐寺ではじめて見かけた後醍醐帝の姿にそれを見出した尊氏は、帝を推し幕府を倒します。
今回改めて、”石”から、今は亡き日野俊基の名と彼が唱えていた「美しき世」の話を聞き、かつて自分も日野俊基の言葉から感じていた理想を思い出したのかも知れません。
中でも今回、尊氏の背中を最後に押したのは藤夜叉の言葉でしょう。

この後、尊氏と藤夜叉がまみえるのかはわかりませんが、一般庶民代表として描かれてきた”石”と藤夜叉の役目はドラマとしては終わったのかもしれません。
(原作での藤夜叉の役割はもう少し異なっており、一般庶民代表は別のキャラに託されています)。

尊氏が後醍醐帝の公家一統の思いと違うことを上申に行くというところで今回のドラマは閉じます。

 

 藤夜叉の登場シーンでアレンジをくわえながら流れる(おそらく)藤夜叉のテーマは良いですね。ぜひともサントラが欲しいものです。

 

 

 

大河ドラマ「太平記」26話「恩賞の波紋」:新政建立の恩賞の沙汰が下り、各人の悲喜こもごもが描かれる

鎌倉幕府の打倒と新政の建立への功についての恩賞の沙汰が下るが、恩賞の配分に偏りがあるなど問題を抱え波紋を呼ぶ。恩賞に一喜一憂する人々の各人各様が描かれ、今後のストーリー上の多くの伏線が張られたエピソードとなった。

 

前回のあらすじ

足利高氏真田広之)を目の敵にする護良親王堤大二郎)との対立を憂慮した後醍醐帝(片岡仁左衛門)や北畠親房近藤正臣)は二人を宴に招き手打ちをさせようとするが、護良親王は「東夷(あずまえびす)の腹の中はわからぬ」とうそぶく。

京の治安担当の足利直義高嶋政伸)は、強盗として捕らえた護良親王配下の僧兵を処刑する。激昂した護良親王は、側近の”殿の法印”(大林丈史)がかねてより準備していた足利高氏暗殺計画の実行を命じる。

北畠親房から招かれた宴からの帰路、高氏は楠木正季赤井英和)とその手のものにより襲われるが、急を駆けつけた楠木正成武田鉄矢)や、高師直柄本明)が密かに付けていた護衛により難を逃れる。
楠木正成は高氏に対して実弟正季の不始末を詫びた上で、「名誉よ、意地よと角突き合わせる都の武士ではなく、田畑を耕し百姓とともに生きる河内に戻りたい」と愚痴をこぼした。

鎌倉陥落の後も、その地に駐屯し続けていた新田義貞根津甚八)は、護良親王の一派からの「京に来なければ恩賞にありつけない」という口車に乗せられ、一族をあげ上洛する。
高氏への対抗馬として護良親王派より大歓迎を受ける一方、高氏と直接会って話すことで、わだかまりが解けていくようであったと描写される。

高氏は後醍醐帝に呼ばれ、諱(いみな)から一字を貰い受ける「偏諱」を受け、”尊氏”と名乗るように言われる。

足利邸での祝いの宴の直前、久しぶりに帰任した一色右馬介大地康雄)は、宿願であった北条氏打倒も成ったとし、尊氏に暇を乞うた。

yuishika.hatenablog.com

 

 

泣いた人

赤松則村(円心)(渡辺哲)

今回、将帥クラスで最も不遇な扱いを受けた人物。
鎌倉幕府六波羅探題攻撃に、足利軍が参戦するよりも以前から京を攻め一番乗りを果たした人物だが、護良親王一派と見られ、世継問題で護良親王と対立する阿野廉子原田美枝子)に嫌われた。
本人は「播磨は言うに及ばず、備前、美作をもらっても」と皮算用していたが、結果は播磨国内の一荘園である佐用荘の下賜だけとなった。

以前には名和長年千種忠顕らと参代し評議に加わっていたり、護良親王の酒宴に呼ばれている等、高氏に対抗する側に回ることが多かった。

恩賞の沙汰が下った場で後醍醐帝にも抗議するが「控えよ、御聖断は一度切りじゃ」と言われ、御簾の奥の帝も反応しなかったので、赤松則村に対する結果については帝も承知の事だったということだろう。

その後、六波羅奉行所に駆け込み尊氏に泣きつき、高師直から「こちらに参られるのは、ちと筋が違うておるようにござりまするが」と嫌味を言われる。
護良親王に訴えられてはどうか」と勧める師直の言葉には、「しょせん、宮(大塔宮護良親王)は武士の心がわからぬお方じゃった。」と嘆き、「やはり、武士の心がわかるのは、武士の頭領。もはや足利殿に頼る他はなく・・」と尊氏にすがった。

尊氏は、度量の大きいところを見せ、嫌味のひとつ言うまでもなく、
いや、ようお越しくだされた。この尊氏、赤松殿のお心ようわかりまする。」と応じる。だが残念ながら沙汰は下っており、師直の言う通り、遅すぎたというところ。

「大塔宮を信じ、帝を信じた、それがしがアホじゃった!二度と帝のために命を賭ける事はせぬわ。それがしは国元に戻りましょう。播磨の山奥で帝の新政の行く末がいかなるものになるのか、じっくりと見せてもらいましょう。
と言い残すと、水干装束の上から太刀を背中に背負ってくくりつけるというなんとも風変わりな風体で立ち去る。
後を追った尊氏が言う。
赤松殿、本日御辺が罷り越したること、この尊氏、しかと胸に刻みおきまする
振り向き、黙って会釈した赤松則村
帝は大きな味方を失のうたかもしれませぬな」と師直がその後姿を評した。

この後、赤松一族は尊氏が後醍醐帝と新政に叛旗を翻すると真っ先に駆けつけ、尊氏が負けて九州に落ち延びたような劣勢な期間もずっと足利勢を支持し続けるなど、外様ながら足利与党勢力となっていく。人生何が影響するかわからない。

史実では若干様相が異なり、赤松氏はいったんは播磨国守護に補任されている。その後、大塔宮護良親王の失脚前後で守護職を解かれ、その後、新政支持から足利尊氏支持になったとされている。

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ましらの石”(柳葉敏郎

かつて助けた日野俊基柄本明)にもらった「北条氏滅亡の暁には、和泉にある元領地の土地を譲る」という書付を持って、なけなしの金で小物を二人雇い、藤夜叉(宮沢りえ)(藤夜叉も市女笠を被せてもらったり)、不知哉丸を連れていざ行ってみると、すでに他の公家(?)の土地となっていて、それらの家臣に散々バカにされた挙げ句、追い返されてしまう。

京に戻り、所領を巡る争いの解決のために設けられた”雑訴決断所”に行くも、花押から文書が日野俊基揮毫による本物であることは認められるが、盗んだものではないかと疑われる。帝の隠岐脱出の支援の事も伝えるも、
いかなる文書を有しておろうとも、綸旨がなければ叶わぬ。
お主が如き訴えをいちいち聞いておる暇はないわ。とっとと失せい」と結局とりあえってもらえなかった・・。*1 

楠木正季の家来になったんじゃなかったっけ?というツッコミはなしにしても、せめて正季や楠木家のルートを使って動くという手はなかったのかい?という印象。

この程度の訴えでも綸旨が必要というのは少々ひどいのではないかな。
ましらの石”について言えば、楠木家経由というルートがあるにせよ、そのようなツテも持たなかった人々にとっては絶望的な状況ではないか?

日野俊基が”ましらの石”に譲ったとしていた土地については、かつて日野家のものであったが北条氏に奪われた土地と俊基自身も言っていたことからすると、北条氏滅亡後に日野家のもとにもどってくるかどうか自体、俊基の希望的な意見に過ぎず、その権利を前の地主にすぎない俊基から譲られたと言っても、そんな権利はないよ、っていう奉行の判断は妥当と言うべきだろう。
日野俊基&”ましらの石”の理屈が通るなら、北条氏滅亡に伴う北条氏の土地の権利は全て元の持ち主の元に戻ることになり、今回の新政にあたっての恩賞の原資自体がなくなってしまう。

その後、”石”はふてくされて落ち込んでいる様子が伺えるが、不知哉丸のほうが大変なことになっていたので、適当に流されてしまう・・。

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微妙だった人 

足利尊氏

足利一族に対する恩賞について、高師直が評する。
「・・此度の恩賞は、師直も不満でござりまする。殿は帝をより諱の1字を賜り、位高く遇されているように見えますれど、肝心の恩賞はご舎弟の分と合わせましても以前とさして変わらぬ数にござりまする。
「欲が深いのぅ。武蔵、相模と北条氏相伝の所領を賜うたのはこの尊氏よ。武家の第一と認められてのことぞ。」:
「されど、新政の書記官に足利の者は誰一人参画してはおりませぬ。新田殿は、武者所頭人、一族ことごとく要職を占めておりまする。公家の間には密かに「尊氏無し」とささやかれているとか。」*2

「・・笑い事ではござりませぬ。あまつさえ三位殿の内奏により、朝に夕に綸旨は変わり・・」と師直は訴えるが、尊氏は取り合わない。

ここで言う三位殿とは、阿野廉子の事。阿野廉子悪女説に沿った描写のひとつということだろう。

ウィキによれば、足利家は30ヶ所の所領を与えられたとされており、さらに尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。、とのこと。

このあたりドラマ化にあたって史実での複雑な部分や派生や枝葉末節にすぎない部分は、先の赤松則村の当初の恩賞の件なども含め、平坦に整えているということだろう。

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北畠親房近藤正臣)・北畠顕家後藤久美子

北畠顕家に奥州に行くようにという沙汰が下る。
親房は抵抗するが、帝は相手にせず、親房も後見としていっしょに行け、と言ってくる。

意外なところで評価の付けにくい沙汰があったのがこの人。確かに親房は大塔宮護良親王の従兄弟にして舅と言っていたので、阿野廉子とその取り巻きからすると、れっきとして護良親王派。せめて京都から遠ざけておこうという思惑があったのかもしれない。

「・・おそれながら奥州に赴き乱を鎮めるなど、顕家には恐れがましき勤めにござりまする。我が北畠家は代々、学問を学び政務に交わる家柄にござりますれば・・
後醍醐帝に言上を述べているのは親房。
「何を申す。文武の道はふたつにあらず、古は巫女や大臣の子が多く軍の大将となりしぞ。さばかりのことがわからぬか。顕家、そちはどう思う?」
顕家はもはや16、武において誰に劣るものではござりませぬ。
「よう言うた。さればこそ、顕家じゃ。奥州は何より大事な国。なればこそ、そちに任せるのじゃ。朕の目となり耳となりて働いてくれ。・・・親房、後見としてそちが同行せよ。
嫡子顕家の空気を読まない、というか親の心を推し量れない対応に、結局自分も奥州に行くように言われ、目が泳いでしまう親房であった。
「心得ましてござりまする。」

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 奥州の武者と力比べをしたいとか中尊寺金色堂を見たいとか無邪気に喜んでいる顕家に対し、ただでは転ばない親房

奥州に阿野廉子が産んだ子の中では一番幼い典義親王を連れて行くことを帝に申し出る。

さらに奥州への出立間際に足利尊氏新田義貞に話をしたいと訪ね来る。
尊氏を器量が大きな武家の頭領と持ち上げておいて、新田義貞武家の頭領、二人の頭領が・・と、頭領が二人と持ち上げる。
その上で、
「・・・さりながら新田殿、何故、鎌倉を捨てられた?」とズケズケと切り出した。
「せっかく手に入れた鎌倉を離れ、足利殿を恨んでいるのではないか?」
「それがしは都にて直々に帝にお仕え致したく、鎌倉は足利殿に譲ったまででござりまする。恨むなど・・滅相もないこと」やや気色ばむ義貞。
「我らと新田殿は共に北条を討たんと約したる仲。同士でござる。のぅ?新田殿。」と尊氏も言う。
「同士のぅ・・。」良いことを聞いたとばかりに、笑い出す親房。
「なにはともあれ、足利殿は鎌倉と京に二つの足をお持ちじゃ。お陰でこの年で奥州に赴くハメになったわ。しかも親子でじゃ。」

「されど、北畠殿は一枚ウワテじゃ。三位殿の幼き皇子を戴かんと見せ、その実、盾にとられたという訳でござりますな。」尊氏も切り返す。
「これこれ、何を申される。そは足利殿と同じ理念ならばこそ。鎌倉の千寿王は足利殿の身代わり。関東の武士は足利殿に従わんと、千寿王の元に馳せ参じた。
親王をいただくもそれと同じこと。帝の御威光を東国の奥地まで知ろしめさんと思えばこそのことぞ。・・幼子の力は新田殿が誰よりもおわかりのはず。」
暗に千寿王が鎌倉にいたため、新田勢は鎌倉を後にしなけれならなくなったといわんが如くの親房。義貞の後悔をズケズケとえぐり出すかのよう。

「奥州と鎌倉は近うござる。」試すように尊氏の顔をのぞきこみながら親房が言う。
「京と鎌倉も近うござりまする。」と返す尊氏。
尊氏の眼光にそっと視線を外す親房。そばで黙って思案を巡らすような高師直

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良かった人 

楠木正成武田鉄矢

河内、和泉の国司に任じられる。

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千種忠顕本木雅弘

沙汰が下る前には阿野廉子坊門清忠らと恩賞の推測をする中で、阿野廉子から「千種は欲張りじゃのう」と評され、「隠岐の苦労を思えば・・」当然と自分で言っている。
「我が国は全て66州、限りある土地、誰に賜るか気になるものよ。」と笑う。

実際の恩賞においては、丹波国司の他、北条方欠所/闕所(主のいなくなった土地)50ヶ所を賜ると言われ、目を輝かす様子が描かれる。

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名和長年小松方正

家臣が担ぐ輿に載せられ行列を組み、浮かれている描写がされる。

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ja.wikipedia.org

 

新田義貞根津甚八) 

前回エピソード時に新田義貞は越後の国司に任じられたと紹介されている。また高師直のセリフの中で、一族が様々な役職についていると評せられている。

勾当内侍との件は後述。

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佐々木道誉

佐々木道誉の恩賞の沙汰については明確には描かれていない(次回以降触れられるのかもしれないが)。
ウィキによれば倒幕期間中における佐々木道誉の行動に関する一次資料はないとされている。
ドラマの中では、阿野廉子に取り入り、うまく世渡りをしている様子が伺えるし、阿野廉子名和長年らを相手に足利党と新田党の鎌倉での確執について語っていたりするので、これまでと同様に必ずしも100%足利尊氏の同盟者というわけでもなさそうな印象。

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その他の人

阿野廉子原田美枝子

後醍醐帝の寵愛を受け、千種忠顕坊門清忠などの取り巻きを連れ、”我が世の春”を汪溢する様子が描かれる。 

恩賞の結果についてそれとなく後醍醐帝に訊ね、
「さしたる功もなき欲深共がそなたのところにああだこうだと言うてくるのであろう。が、朕は聞く耳を持たぬぞ。」といったんは帝より言われるが、すぐに
案ずるな。そなたは格別じゃ。そなたの望みは耳を貸そうぞ。」と言われ、後醍醐帝を操縦している様子が伺える。

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後醍醐帝(片岡仁左衛門

阿野廉子が生んだ三皇子を可愛がり、ことに阿野廉子との三男になる、数え6つの義良親王(のりよし)*3を、阿野廉子の三人の皇子の中では、末頼もしゅうって良いと評している。

後醍醐帝は同母兄の恒良親王成良親王に対して延喜・天暦の治は、摂政関白をおかず帝自らが律令の元、公家一統のまつりごとを果たした点を教えている様子が描かれる。「王たるもの、すべからくかくありたいものじゃ」と帝は述懐する。
さらに帝は正しきまつりごとのために大事な事として、「先例に囚われず、家柄にこだわらないこと」を挙げ、「官職を世襲し、先例を踏み外さないようにするばかりではただしきまつりごとは行えない。」と二子に教える。
*4

「あまりに性急に事を急ぎますのは・・」と控えていた洞院公賢(山崎豊)に言われるが、「はじめから先例があった訳ではあるまい。今、朕がすることは、ことごとく未来において先例となるべく事ぞ。」と逆に諭す。

里内裏では手狭になったので、大内裏を建設する、と言い出す。まぁ、この流れからするとその造成費用で重税を課し・・という流れが想像されるがどうだろう。

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坊門清忠藤木孝

阿野廉子千種忠顕と恩賞の予想の噂話をしたり、阿野廉子の乱痴気騒ぎの宴に呼ばれ北畠親房・顕家親子の奥州行きを噂したりと、阿野廉子の取り巻きとして登場。

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文観(麿赤児

かつて元弘の乱の初期の頃、倒幕の祈祷を行ったとして捕らえられ薩摩は硫黄島に流刑になっていたが、幕府滅亡により戻ってきた、と説明される。

「うまいぃー、都の水は汲んでも汲んでも飽きぬわ」と、阿野廉子の宴で騒ぎまくる姿が描かれている。
阿野廉子からは「・・都に戻られるのをいまかいまかと待っていました」と言われ、
千種忠顕からも「・・これで都がにぎやかになりますなぁ」と言われている。

男女和合の奇っ怪な教えを説き、後醍醐帝の寵愛を背景に仏教界を牛耳っていた怪僧であるとさらりと解説されているが、要はエロ坊主だったということだろう。さっそく勾当内侍に狼藉を働きかけているが、周囲はそれを咎めたりしないところをみると、これもまた阿野廉子他の厚遇を受けているということだろう。

ふと文観のウィキを見るとみっちりと説明があって驚いた。元弘の乱建武の新政の項目を探すのも大変なくらいに緻密な説明がなされている。どうも書いた人の思い入れが溢れだしてかえって読みにくくなっている典型的な項目になっているように感じた。
ウィキによれば最近の研究では、怪僧であったというのは俗説にすぎず、現在再評価が行われている人物ということらしい。

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護良親王

意外にも今回登場シーンがなかった。が、赤松則村からはしょせん武家ではなかったと愛想を尽かされている。

伏線として描かれる人

勾当内侍宮崎萬純

後醍醐帝への思慕をいだきながら振り向いてももらえない。
阿野廉子は内侍へのあてこすりか、内侍がいる前で、「近頃の御上はなにかにつけ廉子廉子じゃ。これじゃ身がもたぬ。」と言ってみたりしている。

宴にて文観に絡まれたまらず逃げ出した廊下で新田義貞と鉢合わせになる。落とした扇子を拾ってもらっている。

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足利直義と不知哉丸

不知哉丸は一度は”ましらの石”と藤夜叉について和泉に行くが、結局京に戻り、直義邸に遊びに行った模様。
そこへ尊氏・直義の母清子(藤村志保)と会い、「かわいいお子じゃ。どこの子じゃ?」と直義に訊き、「二条河原の鰻売りの子」という答えに、清子が閉口する様子が描かれる。

ともあれ直義と、後に足利直冬となる子との関係性が描かれた。

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子を思う尊氏

北畠親房の退去後、山上憶良の歌を口にする尊氏、というシーンで終了

 

瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものそ目交にもとなかかりて安眠しなさぬ

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感想

新政が早々に瓦解した原因、理由がだんだんと描かれてきました。
英明なリーダーがいかに立派な理想を掲げようとも、全国に張り巡らされた統治機構や行政機関がうまく機能しなければ世の中は変わらない。
いまや公家も武家も我先に恩賞に群がり、末端では主客転換とばかりに北条氏の機構が追い払われている状態ではうまくいきようがないのは自明。

 

また人物描写において、無謬の人とそうではない人とがはっきりしてきました。

主人公補正がはいる尊氏は当然として、他には楠木正成、また後醍醐帝も無謬の人ぽい描き方をされている。
もっとも後醍醐帝の場合は、阿野廉子を寵愛しすぎてその使嗾に流されるようになったこと、公家一統と主張はするがそれだけで世の中が変わると信じているところなどは、新政の根本的な部分での失敗原因かもしれず、無謬とは言えないかも。

 

ぜんぜん「太平記」と違う話ですが、新田義貞役の根津甚八さんは、「機動警察パトレイバー the Movie2」でクーデターの首謀者の柘植の声を当てられていたのを思い出しました。なんとなく親近感を感じていたのはそのせいか!
ちょうど「太平記」と製作年も近いです。

 

 

yuishika.hatenablog.com

 

 

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ビジュアル日本史ヒロイン1000人

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*1:

ja.wikipedia.org

*2:

ja.wikipedia.or

ja.wikipedia.org

*3:第七皇子、後の後村上天皇。ちなみに護良親王は第三皇子。

*4:登場していた恒良親王成良親王だが、この後、あまりよい生涯は送っていない。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

この生年から見ると、ドラマの中での年齢は兄が満8歳、弟が7歳といったところ。
一方で、ドラマでは蝶を追いかけるような年端の義良親王(のりよし)が聡いと言われていたが、その実、聡いから天皇になった訳ではなく、兄たちがことごとく亡くなったため後を継いだといったところではないだろううか。

ASLSK シナリオS01「RETAKING VIERVILLE」を対戦する

ちはら会にお邪魔し、入手したばかりのASLSKシリーズ1作目の最初のシナリオS01「RETAKING VIERVILLE」を対戦しました。

「ASLSK エキスパンションキット#2」 のシナリオカードに関する記事は書いていたものの、ASLのプレイからはしばらく離れていたのでちょうどよい機会でした。お相手をいただいたのはT氏。

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1944年6月7日、D-Day+1Day。コタンタン半島の付け根、ユタ・ビーチ近く。VIERVILLE村。アメリカ陸軍第101空挺師団と守備のドイツ軍擲弾兵師団、降下猟兵師団が登場。
両軍とも機関銃さえも登場せず、歩兵ユニットと指揮官ユニットのみという構成。分隊の純粋な火力と機動だけでの勝負です。
最初盤上にいるのはアメリカ軍の小部隊のみで、その後、両軍とも、全5ターンのうち1~3ターンに毎ターン盤外から続々と登場していきます。
両軍とも攻撃側であり防御側でもあるという点は、このシナリオの面白いところでしょう。
勝利条件はマップ中央部の指定された4つの建物ヘックスについて、正常な状態(Good Order)のドイツ歩兵を1ユニットも残さない事。

war.game.coocan.jp

ネットで調べるとシリーズ最初のシナリオということもあり、日本語・英語ともAARや作戦研究が盛んに行われています。

 

プレイ内容を簡単に紹介

当方はドイツ軍、T氏がアメリカ軍を担当。

ドイツ軍は北方(マップ右側)から進入してくるアメリカ軍増援を抑え込みつつ(⑥、⑦のドイツ軍が⑧をいくアメリカ軍を抑える)、村の中央部にいるアメリカ軍を東西から挟撃し(④や⑤)、勝利条件となる建物の確保を行う。
アメリカ軍は煙幕を展開しつつ開豁地ヘックスを渡るか、麦畑ヘックスなどを利用しつつ侵攻し(⑧のあたり)、ドイツ軍を圧迫する。

このアメリカ軍増援の進攻を抑えていたドイツ軍小隊(⑥のあたり)が抗しきれず壊滅すると、ドイツ軍は北側の勝利条件ヘックスの2ヘックス(②のヘックス)を諦め、戦いの焦点は南側の2ヘックスに絞られる(③のヘックス)。
最終局面、勝利条件となっている2つの建物ヘックスに対してアメリカ軍は怒涛の接近戦を試みる。
ドイツ軍の防御射撃(⑤の人たちによるもの)をかいくぐったアメリカ軍空挺兵分隊がドイツ軍が占拠した勝利条件ヘックスの1ヘックスに突撃し、白兵戦勝負となる。ドイツ兵をそのヘックスから全て排除するとアメリカ軍の勝利。確率的には半分強の確率でドイツ軍分隊を除去できる状態。
結果は白兵戦が最後まで解決しなかったので、ドイツ軍の勝利。

データベースによると本シナリオは、6:4くらいでドイツ軍有利というバランスということなので、ドイツ軍としてはアメリカ軍を寄せ付けない状態で1ヘックス確保しているというのが本来のドイツ軍の勝利でしょう。ということは白兵戦勝負となった時点でドイツ軍は実質負けというところでしょうか。

わずか5ターンで双方20個弱のユニットしか登場しないシナリオですが、十分に楽しむことができるシナリオでした。

 

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 マップ右手が北です。

  1. 緑色の丸印:アメリカ軍の初期配置位置(3.5個分隊)。スタート時点で、彼らは村の中央部で小休止中といったところだったのでしょうか。
  2. 赤い六角形マーク:勝利条件ヘックスの北側2ヘックス。南北4ヘックス全てからドイツ兵を1兵残らず追い出すとアメリカ軍の勝利です。
  3. 赤い六角形マーク:勝利条件ヘックスの南側2ヘックス。北側の2ヘックスとは道路を挟んでいるため、ここを占拠するにはアメリカ軍は道路を押し渡って南側にとりつく必要があります
  4. 青の矢印線と星印:ドイツ軍の進行ルートと攻撃拠点とするヘックスの例。あくまで例ですし、全てをまかなえるほどの兵力もありませんので取捨選択が必要です。
  5. 南北の勝利条件ヘックス(③)を隔てる道路を射界に収めることができる建物。ドイツ軍はこのあたりに分隊を置いていやらしくアメリカ軍の行動を制約し続けるのではないでしょうか
  6. 北側(マップ右側)からマップにはいってきたアメリカ軍に対して、このあたりに籠もったドイツ兵は門番のように働き、村への進行を妨げます。
  7. 孤立した建物ですので士気阻喪状態になった時の回復の問題がありますが、右側から開豁地ヘックスを横断してくるアメリカ軍の進攻にあたって、嫌がらせにはなるのではないでしょうか。
  8. 北側(マップ右側)からマップにはいってきたアメリカ軍増援はこのあたりの開豁地(黄緑色:遮蔽物のない平地)や麦畑(黄色:若干遮蔽はしてくれる)を押し渡って村へ取り付く必要があります。ドイツ軍側に機関銃がないことがせめてもの救いかもしれません。
  9. 緑色点線。アメリカ軍増援の登場位置。
    エリート分隊合計8分隊(7個分隊+2個半個分隊)が、第1~3ターンの中で登場します。
  10. 青色点線(マップ下側)。ドイツ軍増援の登場位置。
    合計1線級分隊3個、エリート分隊5個の計8個分隊が第1~3ターンの中で登場します。
  11. 青色点線(マップ上側)。ドイツ軍増援の登場位置。
    2線級分隊3個が第1ターンに登場します。

「BAPTISM BY FIRE」(MMP)を対戦する(2/2)

MMP社「BAPTISM BY FIRE」の対戦です。

ゲームはMMP社「BAPTISM BY FIRE」。副題にカセリーヌ峠の戦いとあるように、1943年2月から3月にかけての北アフリカ戦線チュニジアが舞台です。
このゲーム、MMP社が発売しているゲームシリーズの中で、BCS(Battalion Combat Series)のシリーズ2作目にあたります。1ヘックス=1キロ(ゲームによって異なり、本作では1ヘックス=1.6キロ)、1ユニット=大隊規模となっています。

 

yuishika.hatenablog.com

 

 

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選んだシナリオは「5.3 Mid Campaign」です。
「春の風」作戦冒頭、歴戦の枢軸軍はアメリカ軍第1機甲師団の戦闘団を圧倒し、結果としてアメリカ軍は相当の装備を失いカセリーヌ峠の北側まで撤退します。
枢軸軍はここで作戦目標の意見相違から足踏み状態となり、あらためて作戦目標の決裁を得て攻勢を再開したところからはじまるゲームになります。

以下は本ゲームのマップ(フルサイズ2枚)と今回のゲーム内での両軍の侵攻路を表したものです。

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第1ターン(1943年2月19日)

天候はいきなりの雨。雨季は終了しているのですが、3分の1の確率で雨になります。
雨になると航空支援はなくなり、また各陸上部隊の移動は最大でも半分になるなど攻勢初期においてはけっこう痛手です。

ロンメルの督戦対象は第21装甲師団
第10装甲師団はもとより、第21装甲師団についても連合軍の前線からはかなりはなれていたところからスタートになることと、”雨”の影響でこのターン内で前線にはたどりつけません。

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雨のため峠まではたどりつけなかった第21装甲師団

唯一活動を行ったのは、いち早くカセリーヌ峠の近くまで進出していたカンペグルッペ”DAK”(以後、KG DAK)です。
KG DAKは、連合軍がカセリーヌ峠に埋設した地雷原を地道に啓開します。

 

連合軍はこのシナリオの前の段階で大損害を受けている戦闘団を中心に疲労度の回復に努めます(雨のため移動力半減状態で動くよりは、疲労度を回復したほうが得策と判断した模様)。

 

第2ターン(1943年2月20日

天候は晴れ。さらに枢軸軍はダイスの結果、航空支援を最大値の6攻撃力得ます。
ロンメルの督戦対象は第21装甲師団

中央戦線(カセリーヌ峠周辺)

セリーヌ峠、連合軍の陣地に対してKG DAK、第21装甲師団配下の2個のKG(Kanpfgrupe)が攻撃を開始します。
準備砲撃の後、豊富な航空支援を得て峠の防衛線をすぐに突破、そのまま幹線道路沿いに進撃する部隊はアメリカ軍部隊を文字とおり蹴散らします。アメリカ軍は弱く、後方に回り込んだ先頭集団はそのままアメリカ軍戦闘団の司令部ユニットや補給段列ユニットを襲い、後退させることにより戦闘団の活動状態を麻痺状態に追い込みます。さらには後方から急行してきたアメリカ軍の増援のフォーメーションも退けたほどです。

ロンメルの督戦がはいった第21装甲師団の各KGばかりか、KG DAKも好調で第2活性化まで成功します。しかもKG DAKはかなり戦闘を行ったにもかかわらず、疲労度増加チェックもパスするなど絶好調、第21装甲師団を上回る進撃を見せます。

当初は第21装甲師団を先頭にしてKG DAKは側面防御も含めた配置を考えていたのですが、ここで両方の部隊ともうまく行き過ぎたところがありますね。またKG DAKはダイスの目も良く疲労度の蓄積を回避できていたのですが、第21装甲師団のほうは行動した分、疲労度があがっていたことが気になっていました。

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セリーヌ峠の防衛戦を難なく突破した第21装甲師団とKG DAK、そのままアメリカ軍の後方まで回り込む勢いです

 

東部戦線(第10装甲師団前面:Sbiba方面)

第10装甲師団は配下の3個KGのうち、2個を幹線道路を経由して正面から、1個を未舗装道路経由(補給状態が悪いためSUNAF判定(部隊活動判定)の際に悪影響がある)で側面から進撃させます。
ここでもアメリカ軍は強くはなかったのですが、門番のようにSbiba前面の左右に配備されたイギリス近衛旅団の2個歩兵大隊が、手厚く対戦車砲大隊2個の支援を受け守備しており、これらを排除しなければ枢軸軍は前進できない状態になっていました。
第3ターンまでかけ、波状攻撃の末、ようやくSibibaへの道を啓開します

表面上はあまり変わらないように見えて支援の有無など、アメリカ軍とイギリス軍とで粘り強さに違いが出ているのが興味深いです。

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写真右が北となる。ドイツ軍は写真左手側(南)と手前側(西)から進撃してきており、右側(北)に抜けようとしている。Sibiba前面の門番となっていたイギリス近衛旅団の歩兵大隊の一方を除去し、第501重戦車大隊のユニットが進出したところ。前記事に書いたように、ティーガーⅠは連合軍の戦車部隊よりも射程が長いため、ゲームが続いていたら連合軍にとってはかなりいやらしい存在となったと思われる。

 

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西部戦線(Thelepte、Bou Chebka方面)

 

勝利条件の選択の結果、ロンメルの推す西方突破案が採用されていた場合は重要な地域になったのでしょうが、今回は守備的な北方攻勢が攻勢目標となったため、主攻軸から外れる地域です。
連合軍側は自由フランス軍の1個師団が守備をしており、枢軸側はイタリア軍のチェンタウロ戦車師団を配置しています。

KG DAKの補給線がここの幹線道路を通っているため、守備をなくしてがら空きにもできずに1個師団を守備に置いている状態です。非常にもったいないです。

手持ち無沙汰に、イタリア軍の戦車大隊を前進させ、山間に位置した自由フランス軍に攻撃を仕掛けます。
相手には対戦車部隊がいないため一方的な「直接射撃(Attack by Fire)」での解決となり、サイの目が飛び抜けて良く、イタリア軍2個戦車大隊の攻撃により、自由フランス軍の1個歩兵大隊が除去となります。

まぁもっともイタリア軍側も、仮にその山間の陣地を抜けて連合軍の補給線を脅かすような進撃ができるほどの戦力も気力もないことからこの場はこれ以上の進展はないでしょう。

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第3ターン(1943年2月21日)

天候は晴れ、双方航空支援を決め、補充を受け取ります。
ロンメルの督戦対象は第21装甲師団です。

中央戦線(カセリーヌ峠周辺)

主戦場はカセリーヌ峠を遥かに越え、北方のThalaに近づいています。Thalaは攻勢目標が西方突破の場合も北方攻勢の場合も両方の場合においても占拠によるポイントを得られる重要な拠点です。

第21装甲師団とKG DAKの進撃は好調で、前述した通り当初、側面支援をやらせようとしていたKG DAKの全力を投入したくなるほど最前線の進撃は続いたのでした。

この時点でこれらの部隊の側面がアメリカ軍の横撃にあうことも考慮していたのですが、① アメリカ軍のSNAFU判定や第2活性化判定において早々良い結果が出るものではない。アメリカ軍が攻撃してくるにしても1ターン後ではないか、② アメリカ軍の増援が登場する山間部は幹線道路がないため補給などの面でペナルティがあり行動の自由が制約されるのではないか、といった楽観的な思いから側面防御ではなく、前進を選んだのでした。このあたりの感覚はゲームシステムへの馴れとして、つかめてくるのでしょうが、それがなかったことによる判断ミスというところでしょうか。

3ターン終了間際、アメリカ軍の2個戦闘団が西側の山間部を越え、活性化関係のダイスで良い目が連発したこともあり、急侵攻を行ってきた。その先頭集団は、第21装甲師団やKG DAKの補給線が通る幹線道路を数カ所にわたった占拠します。
アメリカ軍が侵攻してきた後方には88ミリ対戦車砲を備えた部隊などを残していたのですが、88ミリ砲はトラック移動の部隊には有効でも、徒歩で接近する部隊には効果がありませんでした。

次のターン、枢軸軍が反撃するにしても、補給線を絶たれ行動の制約を受ける中、前線の部隊を取って返し、また、幹線道路を占拠する複数個のアメリカ軍歩兵大隊ユニット(それぞれ6ステップ)を排除するのは非常に難しいと判断し、ここで投了としました。 

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3ターン終了時。写真右側が北になる。枢軸軍(黄色・水色・青色)はマップ左手のカセリーヌ峠を越え、右側のThalaにむかって進撃していた。結果、Thalaの4ヘックス手前まで進んでいた。だが3ターン終盤に写真上方(西)から急侵攻してきたアメリカ軍(緑色)により、カセリーヌ峠から延びた幹線道路を数カ所において寸断されたことにより、アメリカ軍部隊の排除は難しいと判断し投了とした。

 

 感想

絶好調の進撃途中に横撃をくらって、一転あっさりと敗北してしまいました。
部隊活動のチェック(SNAFU判定)から、第2活性化までの判定の中で部隊がどのように動くのか、や複数の戦闘方法を選択しながら進めていく戦闘など独特のゲーム内容が理解できただけ良しとしましょう。

 

ゲームシステムへの慣れは必要ですが、戦闘時に戦闘方式を選択しながら進めていく戦術級要素などもある点が面白いです。また異なるフォーメーション間での補給線の重複や担当エリアの重複でペナルティがあったり、戦闘後前進時の混乱など、複数の部隊が活動する中で起こり得る障害までルール化している点もユニークです。部隊数が少ない、本ゲームレベルでこうなのですから、バルジ作戦を扱った「LAST BLITZKRIEG」などどうなることやらと思わざるを得ません。いつか挑戦してみたいものです。

その前にシリーズ第3作になる「BRAZEN CHARIOTS: BATTLES FOR TOBRUK,1941」の対戦をTさんと約して終了となりました。

(おしまい)

 

 

 

                         

「BAPTISM BY FIRE」(MMP)を対戦する(1/2)

MMP社「BAPTISM BY FIRE」の対戦です。
ゲームはMMP社「BAPTISM BY FIRE」。副題にカセリーヌ峠の戦いとあるように、1943年2月から3月にかけての北アフリカ戦線チュニジアが舞台です。
このゲーム、MMP社が発売しているゲームシリーズの中で、BCS(Battalion Combat Series)のシリーズ2作目にあたります。1ヘックス=1キロ(ゲームによって異なり、本作では1ヘックス=1.6キロ)、1ユニット=大隊規模となっています。


対戦は1度経験しており今回は2回目になります。
1回目の対戦結果をまとめる過程でルールの整理を行ったりしているうちに2回目の対戦となったため、こちらを紹介します。
1回目の対戦時はルールの理解が恥ずかしくなるくらい不十分だったので、今更紹介することもいらないだろうということですね。

対戦相手は1回目と同じくTさんです。

 

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このゲームには「春の風」作戦全体を扱うグランドキャンペーンの他、作戦経過の途中から始まる短めのキャンペーンが2本、さらに一部マップのみを用いるシナリオが3本ついています。

今回は作戦冒頭にアメリカ軍第1機甲師団を一方的に蹴散らして、カセリーヌ峠付近まで進出した枢軸軍が、作戦目標を決定し、攻撃を再開するところから始まる、「5.3 Mid Campagin」を扱いました。
1943年2月19日から始まり1日=1ターンにて全5ターンです。

ルールについては以前の記事を参照してください。

yuishika.hatenablog.com

yuishika.hatenablog.com

 

ギミック

本ゲームだけの特別ルールとして2つのギミックが用意されています。

ロンメル ユニット

アフリカ戦線を扱うゲームのお約束なのかもしれませんが、このゲームにもロンメルがユニットとして登場します。

枢軸軍の部隊を督戦することで、部隊の活動内容や活性化チェックの際に有利にすることができます。このためユニットはマップ上に配置されるのではなく、督戦する部隊を示すマーカーのような使い方をされます。*1

勝利条件(枢軸軍の作戦目標が秘匿される)

「春の風作戦」開始当初、枢軸軍内で作戦目標の合意ができていなかった事を受け、勝利条件は2月19日のターンにチットを引いて決めることになります。決めた後も連合軍側には開示されないままゲームが進み最後に開示することになります。

作戦目標により、勝敗決定の際の得点対象となる町が変わってきます。

 

戦闘の例

実際のプレイで発生した状況を元に戦闘の例を紹介します。

紹介しやすいように細部は変えていますので、これがそっくりゲーム中に発生した訳ではありません。
また一部ルール上の解釈ミスや漏れがあったことがゲーム後にわかっており、今回のプレイにおいては適切に適用ができていなかったところがありました(先のルール整理の記事は修正済になっています)。*2

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状況

ドイツ軍第10装甲師団(薄い茶色、黄土色)は、勝利得点ヘックス(青いヘックスサイド)を確保するべく攻勢中であり、前面の連合軍を突破する必要がある。
アメリカ陸軍第34歩兵師団(緑色)は所属部隊に、対戦車能力(AV値)を持つユニットがないため、ドイツ軍の装甲部隊の足を止めることはできない(装甲部隊に対して、ZOCも効かない)。
ドイツ軍にとってやっかいなのはイギリス軍近衛旅団(茶色または赤色)のユニット。特に赤色の2ユニット(①、②のユニット)は、対戦車砲大隊2個の支援を受けているため現在、対戦車能力を有した状態になっており、侵攻するためには赤いユニットは無力化する必要がある。

ドイツ軍は、イギリス軍の赤いユニットの手前に位置する「Reim Panzer Kanpfgrupe」(以後、KG REIM)を活性化し、①のヘックスのイギリス軍歩兵大隊(全6ステップ)を除去するべく攻撃を開始した。

  1. KG REIM司令部が有する砲撃値(聯隊砲兵や師団砲兵を抽象的に表した数値)を用い、①のイギリス軍歩兵大隊に対して「砲爆撃(Barrage)」による「破壊任務(Destruction)」を実施。1ステップ損害を与える(残り5ステップ)
  2. このターン使用可能な航空支援から2攻撃力分を「砲爆撃(Barrage)」による「破壊任務(Destructuin)」に投入、2ステップの損害を与える(残り3ステップ)。
  3. 対戦車自走砲マーダーを装備した第90戦車猟兵大隊(③のユニット)は本来守備的なユニットだが攻勢に用いる。①のイギリス軍歩兵大隊に対して「交戦(Engagement)」を仕掛け、1回目の攻撃の結果により①の支援にはいっていた対戦車砲大隊を一時的ながら制圧することに成功する(”活性化”の間、①は対戦車砲の支援を無くした状態となる)。
  4. ③の同部隊の2回目の攻撃(射撃値を持つユニットは各”活性化”毎に2回の攻撃を行うことができる)においては、①は対戦車能力を失っているためこちら側からの一方的な攻撃である「直接射撃(Attack by Fire)」となり、1ステップの損害を与える(残り2ステップ)
  5. ④の歩兵大隊が、「通常攻撃(Regular Attack)」を行い、1ステップの損害を与える(残り1ステップ)(「通常攻撃」はひとつの”活性化”において1回実施可能。)
  6. ティーゲルⅠ装備の第501重戦車大隊第1中隊(⑤のユニット)が、①に対して「直接射撃(Attack by Fire)」を実施(①は対戦車能力を失った状態のため「砲爆撃(Barrage)」扱いになる)。1ステップの損害を与え、①は除去される。
  7. ⑤のユニットは2回目の攻撃は未済で未移動であったため、ここで移動を行い。1ヘックス前進する。

今回の例では移動を行う場面は少なかったですが、このようにユニット毎に移動と戦闘をそれぞれ解決していきます。攻撃にあたってはそれぞれのユニットの性能により複数の攻撃手法が用意されていますので選択しながら実施していくことになります。

蛇足ですが、今回登場している第501重戦車大隊第1中隊はティーガーⅠ装備ということでかなり強力なユニットになっています。
2ヘックスの射程を持っているため、連合軍側はこのユニットの2ヘックス周囲についてはトラック移動を行うことができなくなります(徒歩移動は可能)。また連合軍側には2ヘックスの射程を持つ戦車部隊はありませんので、アウトレンジでの攻撃される懸念もあります。

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上記の処理終了時の状況
ティーガーⅠ中隊が1ヘックス前進している

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(つづく)

 

 

yuishika.hatenablog.com

 

 

「砂漠の狐」回想録――アフリカ戦線1941~43
 

 

*1:独立したユニットまで登場するということは、アメリカにおいてもロンメル将軍は人気がある存在ということなのでしょうね。

*2:1.「急襲攻撃」が可能なユニットの資格について解釈ミス(狭く捉えていた)。
2. AV値をもった複数のAVユニットに対して「交戦(Engagement)」が発生した場合のDRMの考え方