前回のあらすじ
関東の抑えとして鎌倉に出兵する案を後醍醐帝に奏上するべく参内した足利尊氏(真田広之)を、三位局(阿野廉子:原田美枝子)とその取り巻きである公家達が邪魔をする。自分の派閥に協力し政敵である護良親王へ対抗するのであれば、尊氏の案が却下されないように事前に根回しをしてやろう・・と。
尊氏は「自分は取引はせぬ」と再度取次ぎを願い出、後醍醐帝(片岡仁左衛門)の前で直言する。
最初は怒り、「北条氏のように鎌倉に幕府を開くつもりではないか」とまで言う帝だったが、尊氏が理をもって説き、鎌倉への出兵は許される。
新政は開始半年で早くも綻びを見せ始める中、一色右馬介(大地康雄)の尽力により、”ましらの石”(柳葉敏郎)の元に美濃に土地を与えるという綸旨が下る。右馬介は、藤夜叉(宮沢りえ)に”石”といっしょに美濃へ行くべき、と勧める。
護良親王(堤大二郎)とその派閥は、後ろ盾であり良識でもあった北畠親房(近藤正臣)が奥州の任地に行ってしまい、一方で敵視する足利が鎌倉鎮守を任される中、自らの政敵である三位局が足利尊氏と手を結んだと誤解し、「足利討つべし」と暴走を始める。
諸国に密書が行き兵が京に集められる。
事態の急に六波羅を訊ねた佐々木道誉(陣内孝則)は、新政の先は見えたので、この機に乗じて護良親王を討ち、天下を取る下地作りをするべき、尊氏に説いた。
陣中の椿事
1334年秋、足利尊氏の台頭をおそれた護良親王は反足利勢の軍を集め、応じて足利も六波羅周辺に軍を集める。京内に軍勢が満ち、一触即発状態となっていった。
前エピソードがだいたい1333年10月の北畠顕家の奥州出兵から同年12月の足利直義の鎌倉出兵までを描いていたため約1年後といったところ。
「開戦前夜」と題されていた前エピソード段階で既に「足利討つべし」と息巻いていたことからすると、1年に渡って反目状態が続いていたという事でしょうか・・。
六波羅には佐々木道誉や足利一族側の高師直らが詰め、軍議の最中。護良親王側についた各勢力の動向などの報告が寄せられていく。
「楠木正成殿の動きがとんとつかめぬな。」
「関東勢は動かぬとの報せを岩松殿から受けています。」
「・・高みの見物ということでござろう」
概して護良親王側は参陣したものの様子見だったり戦意が低い勢力ばかりの模様。
緊張状態の中、市中に陣を張った部隊から、楠木正成の御台と嫡子一行を捕らえたという報告があがってくる。
捕らえられたのは楠木正成の河内から上京してきた正室久子(藤真利子)と嫡子正行。
「せっかく戦が終わりましたのに、我殿は国へももどらずお勤めのため都に居続けておられます。」と正直に話をする正子。
言うと止められるので正成を驚かそうと、正成に黙って訊ねてきたが、道に迷ってしまったという。常々、正成が手紙の中でも褒めている尊氏に会えたと言っては喜び、「・・ようやく都にたどりついた心地がいたしまする」とまで言う久子。
「よき人質になる」と主張する高師直に対して尊氏は自ら、一行を楠木正成の邸に送り届けると言う。
牛車を借り、公家の行列を装う尊氏一行。
「御殿(おんとの)はいつも牛車に?」久子が聞く。
「それがしも初めてでござりまする。・・そも牛車は公家方の乗り物。・・お公家と見せかけねば矢を射掛けられまする。このあたりは敵の陣ゆえ、油断がならぬのです。」久子、正行とともに牛車に乗った尊氏が答える。
「敵?御殿の敵にござりまするか?・・この都に?・・そは何者にござりまする?」訊ねる久子。
「このあたりの敵は楠木正季殿。・・それがしには5歳の嫡子がござりまする。登子という妻もおりまする。戦が終わっても会えぬままです。それがしも早うこの都に皆を呼びたい。だが戦が全て終わり、世が穏やかにならねばかなわぬことじゃ。」
穏やかな口調で答える尊氏。
「御殿は戦が嫌いでございまするか?」正行が尊氏に訊く。
「戦は嫌いでござる。」
「父上と同じでござりまするな。」正行の言葉にうなずく尊氏。
正行はこの時9歳であった、と。さらに後に尊氏と戦い、20余年の短い生涯を遂げると語られる。
訊ね来ていた久子・正行一行が足利勢に囚われ、さらには足利から楠木邸に送り届けてきつつあるという報告にあわてたのは楠木正成の陣。
足利を迎え撃つと息巻く家中の者達に、正成が言う。
「正季にも伝えよ、わが楠木党は宮にもつかぬ、足利にもつかぬ。ワシの命に背いて戦を起こすものは、成敗いたす!」
久子・正行一行を届けた尊氏と正成が対峙する。
「・・何を望んでお運び下された?」訊ねる正成。
「明日の戦に楠木殿の援軍を賜りたく・・」
「ほほぅ、それがしが足利殿の味方に?うーん、この楠木、どちらの陣にも味方はせぬ。同心はせぬ、その事はようおわかりのことかと存じおったが・・」
「お逃げになるのか?・・どちらにもつかず、この都が戦場となり灰と化すのを、黙って見過ごされるのか?・・さてさて楠木殿ともあろうお方が、先の見えぬ話じゃ。」
「足利殿に味方致せば、この都は灰にならぬとでも?」
「戦を止めてみせましょうぞ。その議にてお話いたしたく、まかり越したる次第。」
正成は尊氏に言う。
帝から与えられた豪奢な邸宅などは惜しくはない。
帝から御所を守るように言われ、河内の国司としてのまつりごとを任された。いささか荷が重い。
「・・だが、北条一門に邪魔されることなく市場の交易ができる。河内をこの手で建て直せる。これは夢のような話じゃ。・・こんな館は焼けてもよい。じゃがこの夢は手放しとうはない。
難しいまつりごとなどワシにはわからぬ。じゃがこう思うのじゃ、北条の世より帝の御代のほうがワシ等にとってははるかに良い。帝の御代を壊そうとするものがあれば黙って見過ごせぬ。」
「ではなおのこと・・」
「京の街を戦に巻き込みたくはない。足利殿の仰せの通りやも知れぬ。
・・ただこう申すものがおる。足利殿は鎌倉に再び幕府を作らんとしておる。北条に化けるつもりよ、と。河内や大和のものはみなそれを怖れておる。」
「・・3年前、楠木殿は仰せられた。『戦は大事なもののために戦うものじゃ』と。『大事なもののために死するは、負けとは言わぬ』と。尊氏、これまでそれにならって戦こうて参りました。それがしは己のため、私利私欲で戦こうたことはござらぬ。しかと申し上げる。その事、楠木殿もようご存知と思うておりましたが・・」
尊氏の応えに腕組みする正成。
後に(とはいってもさして遠くない先に)足利尊氏と楠木正成は袂を分かつことになりますが、目指すものは同じながらもそこに至る道筋ややり方が違ったとでもいうのでしょうか。
この後、二人の運命が分かれていく様子がどのように描かれていくのか楽しみです。
非常呼集
翌早朝、京の有力武将に対し、六波羅奉行所の足利尊氏より非常招集が掛けられる。呼集に対しまず楠木正成が従い、他の武将も応じた、と説明される。
前エピソードで描かれた評議から、元北条方の二人(二階堂道蘊、大佛某。史実では二人ともこの時点で既に処刑されている)を除いたような面々が集まる
なぜか佐々木道誉の姿は見えず、また”結城”、と呼びかけられている人物がはいっています(結城勢はこの頃、奥州?)
「今、諸国は新しきまつりごと、北条の残党などにより揺れ動いておる。かく言うそれがしも近々紀伊の国にて騒ぎよる残党を鎮めに向かう次第。かかる折、洛中にて戦を企てるとは言語道断。もし都で戦を致せば、天下は乱れに乱れよう。いやぁ、恐るべし恐るべし」尊氏の説明に続いて口火を切ったのは、楠木正成。
「いや、いかにも!」正成に促されるように同意する名和長年(小松方正)
「方々のお心も皆、同じと心得えましてござりまする。かかる上は方々のお力添えを得、戦の企てを断つ覚悟にて候らえば、ご異存ござりませぬな。」
尊氏がきっぱりと言う。
「あ、いや、待たれよ。我らが力添えをいたすとはいかなることじゃ。」
これに新田義貞(根津甚八)が口を挟んだ。
「それがしに従ごうていただき、戦の張本人を都の外に追い払ろうていただく。」
尊氏が答える。
「足利殿に味方せよ、と仰せか?」
「いかにも」
「そういたしたいのはやまやまなれど、それがしは武者所にあい勤める。足利殿の命を受けるのは筋違いではなかろうか。」
「左様、そは奇妙な申されようじゃ。」脇屋義助(石原良純)が横から口を出す。
「はて、武者所も都の中にある司。都が灰となって何の武者所ぞ。この足利は帝より都の護りを命ぜられし、左兵衛督。都に事あらばそれがしに従ごうていただき、帝の御心を鎮め奉るのが筋と存ずるがいかが」
尊氏もいつになく強硬かつ突っ込んだ物言いをする。
「さりながら御辺の申される戦の張本人は誰あろう、護良親王あるぞ。宮には宮の思し召しがあってのことでござろう。その御方に立ち向かうは恐れがましい。」
新田義貞も引かない。
「宮の思し召しとは、いかなる思し召しじゃ?たとえ宮であろうが、都に火をつけるは、帝とてお許しになるまい。それを見て見ぬ振りをするのも許せぬ。
共に立てぬお方はお帰り召すが良い。止めは致さぬ。」
きっぱりと言い切る尊氏に誰も座を立たない。
「下にも理なり。事は急を要す。ここは我らが心を合わせ足利殿の元、都の護りに断つべきやと存ずるが。」すかさず正成が言い、
「御一堂いかがでござる?」と答えを求める。
「新田殿、皆、こう申しておる。此度は足利殿に従ごうてみてはいかがじゃ?」
最後に新田義貞に返答を促す。
「ではご異存ござりませぬな。」尊氏の締めの言葉に、正成が仰々しく平伏して見せ、新田義貞、脇屋義助以外の諸将もあわせて伏し、しばらくあって最後に新田兄弟がそれにならった。
呼集した諸将の解散後、残った正成と尊氏。
「・・帝の恩命により近日中に紀伊の飯盛山に出陣仕ります。北条の残党が相当手強い由、しばらくの間、都を空ける事にあいなりましょう。・・なにとぞ、帝と都をよろしゅうお護りくだされ。しかとお頼み申す。」と正成が言い残していく。
逮捕
護良親王が本陣を置いたのは二条にある神泉苑。
「みな逃げたのか?」
有力な武将が足利尊氏に従ったという情報に護良親王方に参加していた諸家の軍は引き、宮方の陣はもぬけの殻となる。
新田兄弟の軍勢も六波羅に移動していくという報せに
「新田も寝返ったかっ!」と叫ぶのは”殿の法印”(大林丈史)。
「叡山じゃ、この護良にはまだ叡山の兵がある。叡山に使いをやり、鞍馬口まで兵を進めよ、と。
足利め、ついに正体を現したわ。武家を率いて、公家を潰し、朝廷に力を奪うて、天下を狙う腹じゃ。これで帝も麿の思いがおわかりになったであろう。なぜ身が足利を敵とみなしたのか、を。
戦じゃ、戦じゃ、武家共と合戦じゃ。」
あとのセリフに護良親王は神泉苑に立てこもっているというものがでてくることからすると、この時の宮方は二条周辺、一方の足利方は六波羅があった五条から七条あたりまでのところに陣取っていたと想像される。
足利尊氏が、楠木正成の妻久子らを届けたのは、御所に近い(とこれもセリフにある)楠木正成邸なのでこれは二条。二条あたりは宮方の勢力圏にあったということだろう。
内裏では名和長年が状況を阿野廉子に報告する。
「・・宮におかせられては、神泉苑に立てこもりになり、叡山の兵を巻き込み、洛中にて戦のおつもりか、と存じまする」
「あさましや、さほどまでして己を帝に見せつけたいか?この恒良を押しのけなんとしても次の御位が欲しいのじゃ。心底は見えておる。のぅ、伯耆守(名和長年のこと)」
「まことに醜き、宮のお心根。伯耆も心痛む思いでござりまする。」
「ついてはこの事、帝に内奏仕ろうと思うが、どうじゃ?」
「人心は既に宮を離れ奉った旨、奏上されてはいかがかと・・。」
都に初雪が降った日、古式に習い宮中で開かれた初雪の宴を開くとの帝のお召により、護良親王が参内する。
宮中で雪を見るなど何年ぶりであろう。「雪がいつ降り、いつ止んだやら、とんと覚えぬこの幾年じゃ」と言う護良親王を名和長年が率いる兵が囲む。
「帝の御命でござる。ご叡慮でござる。」名和長年が言う。逃げようとする護良親王は兵や官僚に取り巻かれる。
「偽りを申すな、帝は身の父であるぞ。これが父のご叡慮か!帝!帝はいずこじゃ!」取り押さえられながら叫ぶ護良親王。
護良親王の叫びが聞こえたのかどうか・・内裏の奥。
「真にこれでよろしゅうござりまするか?御上。」阿野廉子が後醍醐帝に訊ねる。
「朕の思案の末じゃ。これでよい。都を戦から救うにはこうする他あるまい。朕の名を使うて諸国の兵を集めたとも聞く。我が子のためにまつりごとを揺るがすこともいかぬ。朕は帝ぞ。」
親王の身柄を預かることについて名和も結城も恐れ多いと辞退した、一方で身柄の奪還に動く勢力があるかもしれないという阿野廉子に対し、
「足利に委ねるがよい。あれほどのものじゃ。よもや宮を殺しはすまい。のぅ、廉子。
・・名和に伝えよ。宮は足利に委ねよ。それが朕の命、都を鎮める道じゃ、と」
言い残し立ち去る後醍醐帝。
対面
六波羅の奉行所奥に閉じ込められた護良親王を足利尊氏が訪ねる。
明かりも火もない暗闇の中に鎮座する護良親王。
「足利尊氏にございます。かかる仕儀と相成り、さぞやこの尊氏をお恨みでござりましょう。申し開きもござりませぬ。・・宮は北条討伐の道を我らに示し賜うたお方。こうしてお目にかかるは、おそれがましゅう。胸塞がる思いにござりまする。」
「奇妙じゃのう。これは帝のご意志じゃという。子が道を間違ごうたというのなら、なぜ帝ご自身の手で殺さぬ?なぜご自身の敵に子を渡す?足利とてこうして麿を預けられれば、殺すに殺せまい。」
「怖れながら、尊氏は宮を害し奉るつもりはござりませぬ。また帝の敵と思うたこともござりませぬ。帝もまた足利を敵と思し召されているとは思いませぬ。此度の議は、一重に都の安寧を思し召されての事。」
「今はのぅ、しかしいずれそちは武家を集め、幕府を作る。しこうして帝と戦う。・・今はそうは思わぬが、そちは武家の統領、源頼朝の血を引くものぞ。武家がそれを望めば、帝に抗し奉り、幕府を開かんと欲するであろう。
いや、そちにはそれだけの器量がある。それ故、殺しておきたかった・・。
今日はよう冷える。望むと望まざると麿は帝の子、そちは武家の統領。それ故、相争うた。・・そして負けた。虚しい・・限りじゃ・・。」
今までの狂気がはいったような言動は影を潜め、尊氏へ言葉を返す護良親王。己を一番知るのは己の敵といったところか。
翌日、宮は鎌倉の足利直義の元に送致された、と語られる。
感想
後醍醐帝がなぜ身内の護良親王を切ったのか?
調べるとこのあたり色々と説があるようです。手軽なのでここでもよく引用したり参考にしているWikipediaですが、記事によって書いた人が異なるためか、書きぶりが色々異なるようです。いろいろな説があるんだよ、って書いている記事はまだしも、どれかの説を色濃くした内容だったりするとその記事だけ読んじゃうとそのように理解しちゃいますよね。
ともあれ、
このドラマでは足利尊氏は大河ドラマ主人公補正を受けた無謬の人であり、後醍醐帝と楠木正成もそれに準じる扱いを受けています。
一方の護良親王は足利憎しの思いひとつで暴走したかのように扱われていますし、その周囲には”殿の法印”とか脇屋義助や楠木正季のように直情径行の熱血バカしかいなかったように描かれています。
阿野廉子と護良親王が次の皇位を巡り反目状態にあったのは事実でしょう。護良親王自身は第3皇子にすぎませんが、それでも倒幕に功があったのは事実です。それが、まだ年端もいかない阿野廉子の産んだ皇子のほうが皇太子と言われて反発しない訳がありません。
護良親王が足利尊氏と反目していたというのも自然かと思います。ドラマの中で描かれているように、一方的に護良親王側が敵愾心を嵩じさせ、足利尊氏側は因縁をふっかけられていたような関係というよりも、軍事勢力として互いに反発しあっていたといったところでしょうか。
鎌倉幕府以来の最大規模の御家人である足利と、僧兵集団や元弘の乱以来の楠木勢や赤松勢を従えてた護良親王率いる宮方は、新政下における2大軍閥であったのではないでしょうか。
阿野廉子からすると帝からの寵愛だけでは立場が弱く、いつ自分の子の立太子が取り消されるかわかりません。護良親王に対抗するために軍閥である足利尊氏と結ぶことは利点が大きかった、尊氏からしても阿野廉子を通して後醍醐帝との繋がりを強めるメリットは大きい・・。日本史ではすぐに思い浮かぶところはないのですが、中国の王朝史を見てみると、皇帝の后が後継を巡って外部の軍閥と結んで・・という展開はあったように思います。
ドラマで尊氏は「(帝の)周りのものと取引はせぬ!」とカッコ良く言い放っていますが、護良親王が邪推したように、阿野廉子と足利尊氏との間で取引があってもおかしくないのではないと考えます。
後醍醐帝は、尊氏も無条件にその権威に伏するような、唯一無二の存在のように描かれていますが、実際は直卒する軍事力はない以上、天皇としての権威こそあるものの、もう少し立場は弱く、足利・阿野廉子連合と護良親王の対立が進行する中では、どちらに寄って立つべきかというところにまでなってしまったのではないかと考えました。
このあたりは後醍醐帝がどのような帝であったかという話にもなってきますが、本当に、原作「太平記」にあるような独裁的な強大な権力を持ちえていたのかどうか?その権力基盤は何に依っていたのか?ってことになってきます。
最終的には後醍醐帝は、足利・阿野廉子連合に寄った訳ですが、何を契機にそうなったのかはよくわかりません。
ドラマでは護良親王が”器量がなく”、ニセ綸旨を出すなど自分が帝を代わらんかのような振る舞いをしたり、さらには足利を討つべしと敵愾心を嵩じる余り暴発しようとした等、親王側だけに原因があるかのように描かれていますが、実際は、二大勢力は反発しあった状態が続いていて、足利・阿野廉子連合側が護良親王をはめたのかもしれません。なにかよくわかりませんが、なにかのきっかけで、後醍醐帝は足利・阿野廉子連合側に乗っかることにした・・と。
そうこう考えていくと無謬の人のひとりとして描かれている、今回のエピソードでは宮方にも足利方にもつかない楠木正成も実際はひとくせもふたくせもある、かなり生臭い人だったのだろうな・・と想像してしまいます。
ウィキをたどると楠木正成は千早城などの籠城以来の関係である護良親王に近かかったとあります。
ドラマでは、楠木正成を無謬の人のひとりとする一方で、辻褄をあわせるためか、弟正季を護良親王派に残したのかなと思います。今回も「紀伊で起こった叛乱の鎮圧」のため出動するというセリフがありましたが、これも史実のほうは、護良親王派であった正成を京から離すための政策であったといった説明になっていました。