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大河ドラマ「太平記」26話「恩賞の波紋」:新政建立の恩賞の沙汰が下り、各人の悲喜こもごもが描かれる

鎌倉幕府の打倒と新政の建立への功についての恩賞の沙汰が下るが、恩賞の配分に偏りがあるなど問題を抱え波紋を呼ぶ。恩賞に一喜一憂する人々の各人各様が描かれ、今後のストーリー上の多くの伏線が張られたエピソードとなった。

 

前回のあらすじ

足利高氏真田広之)を目の敵にする護良親王堤大二郎)との対立を憂慮した後醍醐帝(片岡仁左衛門)や北畠親房近藤正臣)は二人を宴に招き手打ちをさせようとするが、護良親王は「東夷(あずまえびす)の腹の中はわからぬ」とうそぶく。

京の治安担当の足利直義高嶋政伸)は、強盗として捕らえた護良親王配下の僧兵を処刑する。激昂した護良親王は、側近の”殿の法印”(大林丈史)がかねてより準備していた足利高氏暗殺計画の実行を命じる。

北畠親房から招かれた宴からの帰路、高氏は楠木正季赤井英和)とその手のものにより襲われるが、急を駆けつけた楠木正成武田鉄矢)や、高師直柄本明)が密かに付けていた護衛により難を逃れる。
楠木正成は高氏に対して実弟正季の不始末を詫びた上で、「名誉よ、意地よと角突き合わせる都の武士ではなく、田畑を耕し百姓とともに生きる河内に戻りたい」と愚痴をこぼした。

鎌倉陥落の後も、その地に駐屯し続けていた新田義貞根津甚八)は、護良親王の一派からの「京に来なければ恩賞にありつけない」という口車に乗せられ、一族をあげ上洛する。
高氏への対抗馬として護良親王派より大歓迎を受ける一方、高氏と直接会って話すことで、わだかまりが解けていくようであったと描写される。

高氏は後醍醐帝に呼ばれ、諱(いみな)から一字を貰い受ける「偏諱」を受け、”尊氏”と名乗るように言われる。

足利邸での祝いの宴の直前、久しぶりに帰任した一色右馬介大地康雄)は、宿願であった北条氏打倒も成ったとし、尊氏に暇を乞うた。

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泣いた人

赤松則村(円心)(渡辺哲)

今回、将帥クラスで最も不遇な扱いを受けた人物。
鎌倉幕府六波羅探題攻撃に、足利軍が参戦するよりも以前から京を攻め一番乗りを果たした人物だが、護良親王一派と見られ、世継問題で護良親王と対立する阿野廉子原田美枝子)に嫌われた。
本人は「播磨は言うに及ばず、備前、美作をもらっても」と皮算用していたが、結果は播磨国内の一荘園である佐用荘の下賜だけとなった。

以前には名和長年千種忠顕らと参代し評議に加わっていたり、護良親王の酒宴に呼ばれている等、高氏に対抗する側に回ることが多かった。

恩賞の沙汰が下った場で後醍醐帝にも抗議するが「控えよ、御聖断は一度切りじゃ」と言われ、御簾の奥の帝も反応しなかったので、赤松則村に対する結果については帝も承知の事だったということだろう。

その後、六波羅奉行所に駆け込み尊氏に泣きつき、高師直から「こちらに参られるのは、ちと筋が違うておるようにござりまするが」と嫌味を言われる。
護良親王に訴えられてはどうか」と勧める師直の言葉には、「しょせん、宮(大塔宮護良親王)は武士の心がわからぬお方じゃった。」と嘆き、「やはり、武士の心がわかるのは、武士の頭領。もはや足利殿に頼る他はなく・・」と尊氏にすがった。

尊氏は、度量の大きいところを見せ、嫌味のひとつ言うまでもなく、
いや、ようお越しくだされた。この尊氏、赤松殿のお心ようわかりまする。」と応じる。だが残念ながら沙汰は下っており、師直の言う通り、遅すぎたというところ。

「大塔宮を信じ、帝を信じた、それがしがアホじゃった!二度と帝のために命を賭ける事はせぬわ。それがしは国元に戻りましょう。播磨の山奥で帝の新政の行く末がいかなるものになるのか、じっくりと見せてもらいましょう。
と言い残すと、水干装束の上から太刀を背中に背負ってくくりつけるというなんとも風変わりな風体で立ち去る。
後を追った尊氏が言う。
赤松殿、本日御辺が罷り越したること、この尊氏、しかと胸に刻みおきまする
振り向き、黙って会釈した赤松則村
帝は大きな味方を失のうたかもしれませぬな」と師直がその後姿を評した。

この後、赤松一族は尊氏が後醍醐帝と新政に叛旗を翻すると真っ先に駆けつけ、尊氏が負けて九州に落ち延びたような劣勢な期間もずっと足利勢を支持し続けるなど、外様ながら足利与党勢力となっていく。人生何が影響するかわからない。

史実では若干様相が異なり、赤松氏はいったんは播磨国守護に補任されている。その後、大塔宮護良親王の失脚前後で守護職を解かれ、その後、新政支持から足利尊氏支持になったとされている。

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ましらの石”(柳葉敏郎

かつて助けた日野俊基柄本明)にもらった「北条氏滅亡の暁には、和泉にある元領地の土地を譲る」という書付を持って、なけなしの金で小物を二人雇い、藤夜叉(宮沢りえ)(藤夜叉も市女笠を被せてもらったり)、不知哉丸を連れていざ行ってみると、すでに他の公家(?)の土地となっていて、それらの家臣に散々バカにされた挙げ句、追い返されてしまう。

京に戻り、所領を巡る争いの解決のために設けられた”雑訴決断所”に行くも、花押から文書が日野俊基揮毫による本物であることは認められるが、盗んだものではないかと疑われる。帝の隠岐脱出の支援の事も伝えるも、
いかなる文書を有しておろうとも、綸旨がなければ叶わぬ。
お主が如き訴えをいちいち聞いておる暇はないわ。とっとと失せい」と結局とりあえってもらえなかった・・。*1 

楠木正季の家来になったんじゃなかったっけ?というツッコミはなしにしても、せめて正季や楠木家のルートを使って動くという手はなかったのかい?という印象。

この程度の訴えでも綸旨が必要というのは少々ひどいのではないかな。
ましらの石”について言えば、楠木家経由というルートがあるにせよ、そのようなツテも持たなかった人々にとっては絶望的な状況ではないか?

日野俊基が”ましらの石”に譲ったとしていた土地については、かつて日野家のものであったが北条氏に奪われた土地と俊基自身も言っていたことからすると、北条氏滅亡後に日野家のもとにもどってくるかどうか自体、俊基の希望的な意見に過ぎず、その権利を前の地主にすぎない俊基から譲られたと言っても、そんな権利はないよ、っていう奉行の判断は妥当と言うべきだろう。
日野俊基&”ましらの石”の理屈が通るなら、北条氏滅亡に伴う北条氏の土地の権利は全て元の持ち主の元に戻ることになり、今回の新政にあたっての恩賞の原資自体がなくなってしまう。

その後、”石”はふてくされて落ち込んでいる様子が伺えるが、不知哉丸のほうが大変なことになっていたので、適当に流されてしまう・・。

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微妙だった人 

足利尊氏

足利一族に対する恩賞について、高師直が評する。
「・・此度の恩賞は、師直も不満でござりまする。殿は帝をより諱の1字を賜り、位高く遇されているように見えますれど、肝心の恩賞はご舎弟の分と合わせましても以前とさして変わらぬ数にござりまする。
「欲が深いのぅ。武蔵、相模と北条氏相伝の所領を賜うたのはこの尊氏よ。武家の第一と認められてのことぞ。」:
「されど、新政の書記官に足利の者は誰一人参画してはおりませぬ。新田殿は、武者所頭人、一族ことごとく要職を占めておりまする。公家の間には密かに「尊氏無し」とささやかれているとか。」*2

「・・笑い事ではござりませぬ。あまつさえ三位殿の内奏により、朝に夕に綸旨は変わり・・」と師直は訴えるが、尊氏は取り合わない。

ここで言う三位殿とは、阿野廉子の事。阿野廉子悪女説に沿った描写のひとつということだろう。

ウィキによれば、足利家は30ヶ所の所領を与えられたとされており、さらに尊氏は建武政権では自らは要職には就かなかった一方、足利家の執事である高師直、その弟・師泰をはじめとする家臣を多数政権に送り込んでいる。これには、天皇が尊氏を敬遠したとする見方と、尊氏自身が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。、とのこと。

このあたりドラマ化にあたって史実での複雑な部分や派生や枝葉末節にすぎない部分は、先の赤松則村の当初の恩賞の件なども含め、平坦に整えているということだろう。

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北畠親房近藤正臣)・北畠顕家後藤久美子

北畠顕家に奥州に行くようにという沙汰が下る。
親房は抵抗するが、帝は相手にせず、親房も後見としていっしょに行け、と言ってくる。

意外なところで評価の付けにくい沙汰があったのがこの人。確かに親房は大塔宮護良親王の従兄弟にして舅と言っていたので、阿野廉子とその取り巻きからすると、れっきとして護良親王派。せめて京都から遠ざけておこうという思惑があったのかもしれない。

「・・おそれながら奥州に赴き乱を鎮めるなど、顕家には恐れがましき勤めにござりまする。我が北畠家は代々、学問を学び政務に交わる家柄にござりますれば・・
後醍醐帝に言上を述べているのは親房。
「何を申す。文武の道はふたつにあらず、古は巫女や大臣の子が多く軍の大将となりしぞ。さばかりのことがわからぬか。顕家、そちはどう思う?」
顕家はもはや16、武において誰に劣るものではござりませぬ。
「よう言うた。さればこそ、顕家じゃ。奥州は何より大事な国。なればこそ、そちに任せるのじゃ。朕の目となり耳となりて働いてくれ。・・・親房、後見としてそちが同行せよ。
嫡子顕家の空気を読まない、というか親の心を推し量れない対応に、結局自分も奥州に行くように言われ、目が泳いでしまう親房であった。
「心得ましてござりまする。」

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 奥州の武者と力比べをしたいとか中尊寺金色堂を見たいとか無邪気に喜んでいる顕家に対し、ただでは転ばない親房

奥州に阿野廉子が産んだ子の中では一番幼い典義親王を連れて行くことを帝に申し出る。

さらに奥州への出立間際に足利尊氏新田義貞に話をしたいと訪ね来る。
尊氏を器量が大きな武家の頭領と持ち上げておいて、新田義貞武家の頭領、二人の頭領が・・と、頭領が二人と持ち上げる。
その上で、
「・・・さりながら新田殿、何故、鎌倉を捨てられた?」とズケズケと切り出した。
「せっかく手に入れた鎌倉を離れ、足利殿を恨んでいるのではないか?」
「それがしは都にて直々に帝にお仕え致したく、鎌倉は足利殿に譲ったまででござりまする。恨むなど・・滅相もないこと」やや気色ばむ義貞。
「我らと新田殿は共に北条を討たんと約したる仲。同士でござる。のぅ?新田殿。」と尊氏も言う。
「同士のぅ・・。」良いことを聞いたとばかりに、笑い出す親房。
「なにはともあれ、足利殿は鎌倉と京に二つの足をお持ちじゃ。お陰でこの年で奥州に赴くハメになったわ。しかも親子でじゃ。」

「されど、北畠殿は一枚ウワテじゃ。三位殿の幼き皇子を戴かんと見せ、その実、盾にとられたという訳でござりますな。」尊氏も切り返す。
「これこれ、何を申される。そは足利殿と同じ理念ならばこそ。鎌倉の千寿王は足利殿の身代わり。関東の武士は足利殿に従わんと、千寿王の元に馳せ参じた。
親王をいただくもそれと同じこと。帝の御威光を東国の奥地まで知ろしめさんと思えばこそのことぞ。・・幼子の力は新田殿が誰よりもおわかりのはず。」
暗に千寿王が鎌倉にいたため、新田勢は鎌倉を後にしなけれならなくなったといわんが如くの親房。義貞の後悔をズケズケとえぐり出すかのよう。

「奥州と鎌倉は近うござる。」試すように尊氏の顔をのぞきこみながら親房が言う。
「京と鎌倉も近うござりまする。」と返す尊氏。
尊氏の眼光にそっと視線を外す親房。そばで黙って思案を巡らすような高師直

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良かった人 

楠木正成武田鉄矢

河内、和泉の国司に任じられる。

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千種忠顕本木雅弘

沙汰が下る前には阿野廉子坊門清忠らと恩賞の推測をする中で、阿野廉子から「千種は欲張りじゃのう」と評され、「隠岐の苦労を思えば・・」当然と自分で言っている。
「我が国は全て66州、限りある土地、誰に賜るか気になるものよ。」と笑う。

実際の恩賞においては、丹波国司の他、北条方欠所/闕所(主のいなくなった土地)50ヶ所を賜ると言われ、目を輝かす様子が描かれる。

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名和長年小松方正

家臣が担ぐ輿に載せられ行列を組み、浮かれている描写がされる。

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ja.wikipedia.org

 

新田義貞根津甚八) 

前回エピソード時に新田義貞は越後の国司に任じられたと紹介されている。また高師直のセリフの中で、一族が様々な役職についていると評せられている。

勾当内侍との件は後述。

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佐々木道誉

佐々木道誉の恩賞の沙汰については明確には描かれていない(次回以降触れられるのかもしれないが)。
ウィキによれば倒幕期間中における佐々木道誉の行動に関する一次資料はないとされている。
ドラマの中では、阿野廉子に取り入り、うまく世渡りをしている様子が伺えるし、阿野廉子名和長年らを相手に足利党と新田党の鎌倉での確執について語っていたりするので、これまでと同様に必ずしも100%足利尊氏の同盟者というわけでもなさそうな印象。

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その他の人

阿野廉子原田美枝子

後醍醐帝の寵愛を受け、千種忠顕坊門清忠などの取り巻きを連れ、”我が世の春”を汪溢する様子が描かれる。 

恩賞の結果についてそれとなく後醍醐帝に訊ね、
「さしたる功もなき欲深共がそなたのところにああだこうだと言うてくるのであろう。が、朕は聞く耳を持たぬぞ。」といったんは帝より言われるが、すぐに
案ずるな。そなたは格別じゃ。そなたの望みは耳を貸そうぞ。」と言われ、後醍醐帝を操縦している様子が伺える。

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後醍醐帝(片岡仁左衛門

阿野廉子が生んだ三皇子を可愛がり、ことに阿野廉子との三男になる、数え6つの義良親王(のりよし)*3を、阿野廉子の三人の皇子の中では、末頼もしゅうって良いと評している。

後醍醐帝は同母兄の恒良親王成良親王に対して延喜・天暦の治は、摂政関白をおかず帝自らが律令の元、公家一統のまつりごとを果たした点を教えている様子が描かれる。「王たるもの、すべからくかくありたいものじゃ」と帝は述懐する。
さらに帝は正しきまつりごとのために大事な事として、「先例に囚われず、家柄にこだわらないこと」を挙げ、「官職を世襲し、先例を踏み外さないようにするばかりではただしきまつりごとは行えない。」と二子に教える。
*4

「あまりに性急に事を急ぎますのは・・」と控えていた洞院公賢(山崎豊)に言われるが、「はじめから先例があった訳ではあるまい。今、朕がすることは、ことごとく未来において先例となるべく事ぞ。」と逆に諭す。

里内裏では手狭になったので、大内裏を建設する、と言い出す。まぁ、この流れからするとその造成費用で重税を課し・・という流れが想像されるがどうだろう。

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坊門清忠藤木孝

阿野廉子千種忠顕と恩賞の予想の噂話をしたり、阿野廉子の乱痴気騒ぎの宴に呼ばれ北畠親房・顕家親子の奥州行きを噂したりと、阿野廉子の取り巻きとして登場。

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文観(麿赤児

かつて元弘の乱の初期の頃、倒幕の祈祷を行ったとして捕らえられ薩摩は硫黄島に流刑になっていたが、幕府滅亡により戻ってきた、と説明される。

「うまいぃー、都の水は汲んでも汲んでも飽きぬわ」と、阿野廉子の宴で騒ぎまくる姿が描かれている。
阿野廉子からは「・・都に戻られるのをいまかいまかと待っていました」と言われ、
千種忠顕からも「・・これで都がにぎやかになりますなぁ」と言われている。

男女和合の奇っ怪な教えを説き、後醍醐帝の寵愛を背景に仏教界を牛耳っていた怪僧であるとさらりと解説されているが、要はエロ坊主だったということだろう。さっそく勾当内侍に狼藉を働きかけているが、周囲はそれを咎めたりしないところをみると、これもまた阿野廉子他の厚遇を受けているということだろう。

ふと文観のウィキを見るとみっちりと説明があって驚いた。元弘の乱建武の新政の項目を探すのも大変なくらいに緻密な説明がなされている。どうも書いた人の思い入れが溢れだしてかえって読みにくくなっている典型的な項目になっているように感じた。
ウィキによれば最近の研究では、怪僧であったというのは俗説にすぎず、現在再評価が行われている人物ということらしい。

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護良親王

意外にも今回登場シーンがなかった。が、赤松則村からはしょせん武家ではなかったと愛想を尽かされている。

伏線として描かれる人

勾当内侍宮崎萬純

後醍醐帝への思慕をいだきながら振り向いてももらえない。
阿野廉子は内侍へのあてこすりか、内侍がいる前で、「近頃の御上はなにかにつけ廉子廉子じゃ。これじゃ身がもたぬ。」と言ってみたりしている。

宴にて文観に絡まれたまらず逃げ出した廊下で新田義貞と鉢合わせになる。落とした扇子を拾ってもらっている。

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足利直義と不知哉丸

不知哉丸は一度は”ましらの石”と藤夜叉について和泉に行くが、結局京に戻り、直義邸に遊びに行った模様。
そこへ尊氏・直義の母清子(藤村志保)と会い、「かわいいお子じゃ。どこの子じゃ?」と直義に訊き、「二条河原の鰻売りの子」という答えに、清子が閉口する様子が描かれる。

ともあれ直義と、後に足利直冬となる子との関係性が描かれた。

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子を思う尊氏

北畠親房の退去後、山上憶良の歌を口にする尊氏、というシーンで終了

 

瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ いづくより来りしものそ目交にもとなかかりて安眠しなさぬ

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感想

新政が早々に瓦解した原因、理由がだんだんと描かれてきました。
英明なリーダーがいかに立派な理想を掲げようとも、全国に張り巡らされた統治機構や行政機関がうまく機能しなければ世の中は変わらない。
いまや公家も武家も我先に恩賞に群がり、末端では主客転換とばかりに北条氏の機構が追い払われている状態ではうまくいきようがないのは自明。

 

また人物描写において、無謬の人とそうではない人とがはっきりしてきました。

主人公補正がはいる尊氏は当然として、他には楠木正成、また後醍醐帝も無謬の人ぽい描き方をされている。
もっとも後醍醐帝の場合は、阿野廉子を寵愛しすぎてその使嗾に流されるようになったこと、公家一統と主張はするがそれだけで世の中が変わると信じているところなどは、新政の根本的な部分での失敗原因かもしれず、無謬とは言えないかも。

 

ぜんぜん「太平記」と違う話ですが、新田義貞役の根津甚八さんは、「機動警察パトレイバー the Movie2」でクーデターの首謀者の柘植の声を当てられていたのを思い出しました。なんとなく親近感を感じていたのはそのせいか!
ちょうど「太平記」と製作年も近いです。

 

 

yuishika.hatenablog.com

 

 

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*1:

ja.wikipedia.org

*2:

ja.wikipedia.or

ja.wikipedia.org

*3:第七皇子、後の後村上天皇。ちなみに護良親王は第三皇子。

*4:登場していた恒良親王成良親王だが、この後、あまりよい生涯は送っていない。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

この生年から見ると、ドラマの中での年齢は兄が満8歳、弟が7歳といったところ。
一方で、ドラマでは蝶を追いかけるような年端の義良親王(のりよし)が聡いと言われていたが、その実、聡いから天皇になった訳ではなく、兄たちがことごとく亡くなったため後を継いだといったところではないだろううか。