数年越しに対戦企画が進んでいるゲームがある。
旧SPI社が発売していた表題のゲームだ。原作は、エドガー・ライス・バロウズによるSF冒険ファンタジー小説だが、執筆されたのは1911年、雑誌連載が1912年、アメリカのSF小説史の中でも古典と言って良い作品だ。
ゲームシステムやゲーム内容はおいおい紹介するとして、今回はその原作小説の映画化作品「ジョン・カーター」(2012年)の話をしたい。
原作のストーリーは次のようなものだ。
主人公のジョン・カーターは南北戦争の南軍大尉(日本で言うところの維新の志士と同年代ということになる)。退役後、アリゾナ州の荒地で、金鉱の探索中にアメリカ先住民に襲われる。追い詰められた洞窟の奥でガスのため昏倒するのだが、目が覚めるとそこはバルス-ムと呼ばれる火星だった・・。
ジョン・カーターが降り立った火星は乱世の時代、四本の腕を持ち獰猛な戦闘民族の緑色人、地球人とそっくりの容姿で科学文明を持ち都市国家を営む赤色人(後の作品で他にも色々と種族が登場するが)がそれぞれ復数の国家・部族に分かれ相争う世界であった。持ち前の剣技に、火星の重力が地球より弱いことによる驚異的なジャンプ能力をはじめとする運動能力、友情に厚く、信義を重んじるという快男児ジョン・カーターが活躍する冒険活劇というのが「火星シリーズ」と呼ばれる作品となっていく。今で言う異世界転生ならぬ異世界転移もののハシリと言って良いかもしれない。
SPI社からかつて発売されていたゲームのボックスアート。嫌いではないです。
監督はピクサーのアニメ映画「ファインディング・ニモ」(2003年)のアンドリュー・スタントン。本作が実写映画での監督・脚本デビュー作だった。
監督自身が原作ファンで、映画化権を持っていたディズニーに映画を撮らせてくれ、と懇願していたところ、「ファインディング・ニモ」他の成功によりお鉢が回ってきたらしい。
ところが、結果から言うと本作は北米での興行に失敗し、興行収入(ビデオなどの二次収入は除外)では当時、史上最大の赤字を出した映画といわれた。次のウィキの記事を見ても”史上最大”という部分は今も変わっていないようだ。
続編の構想があったようだが、もはや絶望的だろう。
本作については以前から見てみたいと思ってはいたものの、アマゾンプライムにはなかなか登場せず、しびれを切らして今回レンタル料を払ってまで見たという次第だ。
「滅びゆく惑星」と映画ではあまり触れられていない修飾を入れたり、「地球」のシーンで憂いを帯びさせたりと無味乾燥にならないようにバイアスをかけることに努力の跡が見て取れる予告編です(裏を返せば火星のシーンが無味乾燥風なのです)。
感想
アマゾンプライムのレンタルは視聴を始めてから48時間有効。貧乏くさいが1回といわずに何回か見てみようくらいの勢いで見始めたはいいものの、結局、1回だけで終わってしまった。理由は推して知るべしと言わず、今から書く。
原作ファンとして何がダメだったのか、映画の感想を書いてみようと思う。
ダメに感じた理由を5つまとめてみた。最初の2点は映画として見た時、残りの3点は原作ファンとしての視点からの印象だ。
1.長くて冗長
異世界を描いた長大な映画というと思い出すのはトールキン原作の「指輪物語」を映画化して大成功を収めた「ロード・オブ・ザ・リング」3部作がある。同作の監督と共同脚本を担当したピーター・ジャクソンが原作愛のあまり、たっぷりの予算で手抜きをせずに壮大な架空の物語世界を構築して見応えがあった。
もしかすると原作愛が強い「ジョン・カーター」の監督の頭には「ロード・オブ・ザ・リング」の成功事例があったのかもしれない。
上映時間2時間超の134分。別に長いから悪いのではなくテンポが悪い。特に気になったのは冒頭部から延々20分も「地球」でのストーリーが続くことだ。
叔父のジョン・カーターが失踪したという知らせを受けた甥のエドガー・ライス・バロウズがジョン・カーターの邸宅を訪ね、そこで彼の手記を見つける。
元南軍大尉だったジョン・カーターが南北戦争後、金鉱の探索の途中、「黄金の洞窟」の伝説を聞いて回るのだが、北軍の騎兵隊に絡まれ囚われる。回想でジョン・カーターにはかつて妻と子がいたというシーンが挟まれる。
騎兵隊の元を脱走し将校の馬を奪って逃げるジョン・カーターと追う騎兵隊の前に武装した先住民の騎馬隊現れ、両者が撃ち合いになって・・
というストーリーが20分あまり続く。やや古めかしい19世紀の服装もあり、何の映画を見ているのだろうという印象で、早くもこの段階で退屈になってしまった。
原作では元軍人の冒険家で快男児という半ばステレオタイプに描かれる主人公の造形に深みをもたせるために延々と「地球」でのストーリーを描いたことは想像がつく。
彼は権力に阿らず(騎兵隊に囚われ尋問を受けても屈しない)、敵味方問わず公平であり人道優先で(撃ち合いの中で負傷した騎兵隊の将校を自ら助けようとする)、かつて事故?(戦争?)で妻子を亡くすという影を抱えている(これは原作にない設定)、口は軽いほうではなく皮肉屋でも、絶体絶命の状況下でジョークを飛ばすような性格ではない(ハリウッドの冒険映画の主人公によくある性格ではない)。
せっかく時間をかけて人物像を膨らませて描いたにもかかわらず、火星に行ってからのジョン・カーターの行動原理がきちんと裏付けられているかというといまひとつな印象なのだ。全体に主人公の個性は希薄に感じられた。
同じタイミングでアマゾンプライムビデオに登録された「インディージョーンズ」1、2作目を見たのだが、開幕数分視聴者を引き込んでしまうインディージョーンズと比べるとなんとも主人公が立っていない。
2.既視感がある造形/新味がない
火星の荒地で目を覚ましたジョン・カーターは最初に緑色人のサーク族に囚われるが、火星が地球より重力が弱いことを生かした驚異的な身体能力は緑色人たちを驚嘆させる。彼らは強いものが好きなのだ。ジョン・カーターがいくつかの活躍をみせることで信頼を得ていく過程は原作にも忠実だ。
火星の風景は荒涼とした砂漠と荒地で描かれる。容赦のない太陽がさす砂漠地帯というと砂の惑星こと「デューン」やスターウォーズに登場する砂漠の惑星「タトウィーン」を彷彿とさせる。いずれも太陽がカッと照りつける系統の砂漠だ。
後述するように原作小説の火星は荒れた地表が続く惑星なのだが、古い文明の跡がどこかしこに残る滅びゆく惑星として描かれている。どうも情緒の置き場所が異なるようだ。
ジョン・カーターがはじめて出会う火星のクリーチャーである緑色人の造形は見事だ。身長3〜4メートルの超長身。形状は人間型、痩せているが強靭な筋肉の肉体に4本の腕を持つ。戦闘シーンで4本の腕を駆使して戦う様子など原作のイメージ通りで素晴らしかった。
ただこの緑色人の印象はどこかしら既視感がある。映画「アバター」(2009年)に登場する先住民ナヴィに印象が似ているのだ。
上段: 「ジョン・カーター」より緑色人。後ろの髭面の男がジョン・カーター
下段: 「アバター」より。顔の造形とか印象が似ていませんか?
やや横道にそれるが本作に登場する火星のクリーチャーはいずれも素晴らしく、力がはいっていた。獰猛な火星犬、後にジョン・カーターの忠実な番犬となるウーラのブサ可愛らしさ。ジョン・カーターと緑色人のタルス・タルカスが闘技場で戦うことになる巨大な大白猿。火星の8本足の馬など。
海に浮かんだ船がそのまま空中に浮かんだ飛空艇というアイディアは例えばファイナルファンタジーのシリーズ作品では不可欠の移動方法だ。またスターウォーズでもまた飛空艇にあたるセールバージという船が登場していた。
こうした飛空艇のアイディアの端緒のひとつとして、もしかしたら火星シリーズがあるかもしれないのだが、映画の中ではどうにも既視感が拭えなかった。
本作の飛行艇はふわふわした羽がたくさんついたようなデザインだったが、個人的な好みで言えば、もっと無骨に「スターウォーズ」のセールバージのように鉄甲船がそのまま宙に浮いたようなデザインのほうがよかったように感じた。
上段:「ジョン・カーター」より砂漠の上での飛空艇同士の戦闘
中段:「ファイナルファンタジー」より飛空艇
下段:「スターウォーズ」シリーズよりセールバージ
どれが好きかと言われると体感的に最下段。原作を読んでいた頃のイメージに最も近いですよね。ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」は12歳の少年向けの映画だ、ということを語っているようなのですが、12歳の少年が乗ってみたいなぁと思わせるのはセールバージなんでしょうね。
まとめると、緑色人の造形、飛行艇の造形などどうにも既視感があり新味を感じられなかった。登場するならするでもっと魅力的な乗り物であると描写すればよいものの、どうにもその魅力は伝わらなかったといわざるをえない。「天空の城ラピュタ」のタイガーモス号のように、この飛空船に乗ってみたい!と思わせるような魂は全く感じられなかった。
3.ストーリーを歪める
原作でジョン・カーターは緑色人に囚われた赤色人の都市国家のひとつヘリウムの王女デジャーソリスに出会い、彼女を救おうと奮闘するのだが、その相手はヘリウムに敵対する赤色人の都市国家ゾガンダだ。本作でもゾガンダは登場しゾガンダの皇子はデジャ-ソリスとの政略結婚を望む。ところがここに原作には登場しないスキンヘッドの神官グループが真の黒幕として登場する。彼らは姿を自由に変え、しかも(理由はわからないが)バルス-ム(火星)の滅亡を目指している・・。
映画後半ジョン・カーターはゾガンダの皇子と戦うだけではなく、この姿を変えることができることから神出鬼没のマタイ・シャンとその一味との争いを行うことになる。これがなんとも面白くないのだ。
バルス-ムの滅亡を画策するスキンヘッド集団とその長?マタイ・シャン(Matai Shang)。原作には登場していないし、わざわざ自分たちの住む世界の滅亡をなぜ目指しているのか不明(映画中で語られているのかもしれないが、その行動原理はよくわからなかった。英語のウィキを見ても目標は不明とか書いてあるぞ!・・宇宙を旅し時を超越する種族・・云々とはある)
手前の毛皮をまとった男は、原作でジョン・カーターの敵役になるゾガンダの皇子サブ・サン(Sab Than)。映画ではゾガンダの族長となっているが、いずれにせよ、本作のヒロイン デジャ-・ソリスとの政略結婚を望んでいる。
このマタイ・シャンをわざわざ登場させる必要性がよくわからなかった。
ストーリーを単純化するために勧善懲悪の悪役を作る必要があったのか?と勘ぐりたくなるような設定なのだ。とはいえ、マタイ・シャンが登場したからといってストーリーが単純になったような印象は受けず、設定自体が不可思議な印象を受けた。
バルス-ム自体が滅亡に瀕しているという設定は原作からあるものだが、滅亡に瀕している理由は映画のように滅亡を画策している一味がいるからではなく、惑星自体が黄昏期を迎えつつあるという、「火星シリーズ」(本作原作シリーズ全体を指す)全体を通してバックボーンとしてある設定だ。この設定のため、シリーズ作品は独得の憂いを帯びるのだが、映画にはそのような「奥ゆかしさ」は微塵もない。
原作では、紫色の夜空、夜を照らす2つの月、月を背景に飛ぶ飛空艇の艦隊、地平線を目指しての飛行、かつて滅びた古代都市の遺構など情緒のある描写が随所にあるのだが、映画はどこまでいっても砂漠・荒地と明るいカッと照りつける系の太陽の世界だ。
ネタバレになってしまうが原作のラストで主人公は火星の空気を作り出す空気製造工場の不調を知りその対応の途中で地球に転移して戻ってしまうのだが、映画ではマタイ・シャンの力によって戻されることになっている。
4.原作にあるカタルシスがすっかり抜け落ちた
原作のジョン・カーターは剣技の達人、重力の違いからくる地球人の身体能力を生かした能力、勇敢、友情に厚く、信義を重んじるという人物として描かれている。原作では単身異世界にやってきた主人公がこうしたキャラクターから信頼や友情を勝ち得、仲間を増やし、やがてヒロインと出会い・・、ライバルと戦い、最後は勝利を収めるというストーリーで、その時々にカタルシスを得る場面が登場する。
映画でも主人公のキャタクター造形は原作と変わっているところはない。ただ原作にあったカタルシスを得る場面は十分に得られていない。
緑色人のタルス・タルカスとお互いの実力を認め合い、無二の親友となること。
緑色人の娘でジョン・カーターの世話をしたソラは実はタルス・タルカスの実の娘であることがわかること(若干、浪花節めいて語られるのだが)
この2つについては映画でも描かれてはいる。
ヒロイン デジャ-・ソリスとの馴れ初めや展開は、デジャ-・ソリス自体のキャタクターがかなり原作から変わっているため別物と言って良い。
またクライマックスのカタルシスは前述のマタイ・シャンのため全く異なるものとなった。
5.なによりもデジャー・ソリスが魅力的ではない(というか、それじゃない!)
原作のジョン・カーターは19世紀的な価値観・道徳観念を持った人物であり、女性は絶えず守るべき存在であるように描かれている。
映画では女性への扱いが現代的に描かれているのはなんともちぐはぐに見える。後述するように、ヒロインのデジャ-ソリスを現代的な女性として描いていることもあって、せっかく19世紀の「地球」の開拓時代のストーリーをふくらませることで描いたジョン・カーターの人物像が、ボケてしまっているように感じた。本作での女性(名前が出てくる女性キャラは緑色人のソラ以外では、ヒロインのデジャ-・ソリスしかないのだが)は共に戦う存在として描かれている。
原作シリーズを唯一無二のものにしていたヒロイン デジャ-・ソリスのキャラが全く異なるものになった点は避けて通れない。端的に言うと、「コナン・ザ・グレート」のヴァレリアさんですか?というくらいの筋肉隆々の王女様になりあそばされた訳だ。
原作が書かれた時代との違いと言ってしまえばそれまでだが、こういうのもポリコレの一種なんですかね・・。
少なくとも武部本一郎のイラストで馴染んだ日本の原作ファンには総スカンをくらったことは想像に難くない。
デジャ-・ソリスさんとジョン・カーターです。
おまけ:火星犬ウーラは忠犬の名の通り、主人公にどこまでもついていく非常に忠実で勇敢に描いてあって好印象
(終わり)
ゲームの準備(和訳とか)の記事は続く予定です。