沖縄戦の陸戦を中心に、日米両軍の主力が激突した南部の戦いを首里防衛線が崩壊するあたりまでを扱ったゲームジャーナル誌の「沖縄の落日」を対戦した。
両軍で登場するチットはそれぞれの兵装・部隊・戦術などからとられているが、アメリカ軍のそれが一般的な名称で終わっているのに対し、日本軍のチットの多くはそれぞれ史実からとらている思い入れが強いものになっているようです。
前回の記事でできていなかったものも含めて紹介します。
日本軍のチット
特設連隊
日本軍の陸上支援部隊チットのひとつ。1個ユニットのみ歩兵部隊として、チット内に登場。戦闘力(射撃能力)は保有してなく、白兵戦値が「2」となっている(通常の日本軍の歩兵中隊の白兵戦値は「1」)。が、白兵戦値のダイス修正ボーナスは保有していない。人数は連隊規模だが、1ステップのみ。
史実の特設連隊は、中飛行場(今の嘉手納飛行場)の建設・維持管理・飛行支援を担当する部隊からアメリカ軍上陸直前に編成された。編成時の兵員総数は2個大隊約2000名。装備も戦闘訓練も十分ではなく砲兵戦力を保有していなかったため、夜間斬り込みでしか戦闘ができなかった。アメリカ軍上陸時には独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)とともに最前線にたたされた。
アメリカ軍上陸直後の4月3日頃には組織的な行動はとれなくなりほぼ全滅状態になった。
海上挺進基地大隊
日本軍の陸上支援部隊チットのひとつ。1個ユニットのみ歩兵部隊としてチット内に登場。戦闘力(射撃力)は保有してなく、白兵戦値が「1」となっている(ボーナス修正はなし)。
四式肉薄攻撃艇(マルレ)装備の部隊(「震洋」は海軍の攻撃艇なので別もの)。特攻艇とも言われるが必ずしも特攻だけを攻撃手法とはしていなかった模様。上陸前に空爆により基地を破壊され装備を失ったりもするが、アメリカ軍の上陸直後から主に夜間での出撃を繰り返した。船舶装備を全て失った後、残存の隊員は陸上戦闘に参加し、ほとんどが戦死をとげた。
県民防衛隊
日本軍の陸上支援部隊チットのひとつ。1個ユニットのみ歩兵部隊としてチット内に登場。戦闘力(射撃力)は保有してなく、白兵戦値は「1」となっている(ボーナス修正はなし)。
沖縄では通常の予備役召集から拡張され、予備役外の17-45歳の男性までを対象に防衛召集が行われた。防衛招集兵22,000-25,000名のうち13,000名が戦死したとされる。
アメリカ軍上陸までに軍事訓練などはほとんどなく、軍服は支給されたが、武器も不足していた。基本的には土木作業になどに投入され、直接の戦力にはならなかったという。ただ、ゲリラ戦目的の遊撃隊に配属されるなど直接的な戦闘任務にもしばしば参加、戦闘に参加しないまでも最前線の部隊に同行して戦闘補助任務を担っていた。前出の「特設連隊」も防衛召集のひとつであり、戦闘任務に投入された例である。
第27戦車連隊
日本軍の陸上支援部隊チットのひとつ。戦闘力-白兵戦力装甲値が1-1-2(アメリカ軍の戦車部隊チットは2-1-2。戦車戦自体が発生する訳ではないが戦力的には同レベルで扱われている)。日本軍で唯一の戦車部隊として1ユニットのみ登場する。再編成に必要なポイントが5と高いため、一度除去されると二度と復活は難しい(もっとも他の日本軍支援部隊も復活が難しいのは同様だが)。
アメリカ軍の戦車チットも2ユニット(他に水陸両用戦車1個、火炎放射戦車1個)しかないが、アメリカ軍のチットは復活に特に制約がないため、少々のタイムラグ後、チットプールからドローすることで再登場が可能。
沖縄に配置された第32軍唯一の機甲戦力。満州で編成された戦車第2師団の師団捜索隊から抽出改編され1944年7月に沖縄に配備された。一部を宮古島に分派していたため、沖縄本島に配備されていた車両は、九七式中戦車、九五式軽戦車それぞれ十数両にすぎなかった。5月3日の第32軍総攻撃により戦車のほとんどを撃破され残存戦車6両となる。5月4日以降は首里防衛線の石嶺丘陵に戦車をトーチカとして運用、隷下部隊の歩兵・砲兵(九○式野砲、一式速射砲を装備)の機動的運用により戦闘を継続。5月27日全車両を喪失した後、石嶺丘陵を撤退した。
32センチ臼砲
日本軍の支援砲撃チットのひとつとして登場。射程・火力とも他の支援砲撃チットよりも劣るが、支援砲撃火力を1/3に低下させてしまうアメリカ軍の「煙幕弾」チットを 無視できる。
史実での正式名称は、九八式臼砲。「ム弾」「無砲弾」とも呼称される。発射台に直接、有翼のロケット弾のような形状の弾を配置して使用する。ただし弾側に噴射機能はない。破壊力では30センチの榴弾砲と同程度とされた。硫黄島での戦いでの利用が有名。
重擲弾筒
戦闘力-白兵戦力が2-1と、通常の日本軍の歩兵中隊(1-1または1-2)よりも射撃能力で上回り、さらに白兵戦力にはボーナスがつく心強いユニット。5ユニットも登場するため、序盤から中盤にかけて貧弱な火力の日本軍を支えてくれる。が、除去後の復活にはそれなりの補充ポイント(3)が必要なのは、他の日本軍の陸上支援部隊チットと同様のため、終盤の日本軍はジリ貧に陥る。
みんな大好き八九式重擲弾筒。通称ニーモーター。通常、1個小隊のうち1個分隊が擲弾筒装備になっており、4門が配備されていた。
沖縄戦における重擲弾筒の活躍についてはウィキペディアに詳しいので引用してみる。
・・擲弾筒は沖縄戦でアメリカ軍兵士がもっとも恐れた兵器の一つで、前線で戦ったアメリカ軍兵士の評価は「それ(擲弾筒)はあらゆる兵器のなかでもっとも猛威をふるった」「擲弾筒の弾丸の飛んでくる音は目標となっている者には聞こえず、聞こえたときには手遅れだった。非常に大きな損害をこうむったものだ」「その砲弾をアメリカ軍の頭上に落下させることができたし、それほど弾着が正確でとくに嫌われていた」であった。
機関銃
戦闘力-白兵戦値2-0と日本軍の火力を強力に補強する支援部隊。さらに制高点に配置された際は射程が2ヘックスになる。
重擲弾筒と同様に火力に劣る日本軍にとって心強い支援チット。3ユニット登場する。一度除去されると補充ポイントが必要なのは他の日本軍陸上支援チットと同様。
機関銃についてもウィキペディアの「沖縄戦」の記述で取り上げられているので引用する。
・・重火器を含む総合的な火力では、圧倒的優勢であったアメリカ軍だったが、こと近距離の歩兵戦では、日本軍に火力で遅れをとることもあった。日本軍の歩兵部隊が小隊規模で擲弾筒を装備していたのに対して、アメリカ軍歩兵は中隊規模でも同様な支援火器はなく、また分隊レベルの支援火器が日本軍は軽機関銃であったのに対し、アメリカ軍はブローニングM1918自動小銃であり、弾倉が20発の容量と少なく、また銃身交換が容易にできず、射撃の持続性で軽機関銃に劣っていた。日本軍が沖縄戦で主に使用した九九式軽機関銃の1分間の発射速度は約800発で、M1918自動小銃やアメリカ軍の主力機関銃ブローニングM1919重機関銃の約2倍の発射速度であり、九九式軽機関銃の甲高い発射音はアメリカ軍兵士に女性の叫び声のように聞こえて恐れられた。そして、第32軍には、フィリピンに送られるはずだったこの九九式軽機関銃や九二式重機関銃が第10軍より大量に支給されており、第32軍の各師団は通常の編制より火器の装備密度が高かった。この豊富な火力によりアメリカ軍の歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用され、アメリカ軍は速射砲や機銃陣地の火力支援を受け、その前面で爆薬で戦車に決死攻撃をかける日本兵が潜む塹壕を「蜘蛛の穴」と呼んで警戒することとなった。
ASL(アドバンスドスコードリーダー)でも日本軍の小火器として軽機関銃・重機関銃が登場するが、個々の兵器としての評価は決して高くない。が、数と密度を集めた際に有効であったということだろう。今度、ASLで「嘉数高地」を扱ったシナリオ集を確認してみる。
義烈空挺隊
日本軍の海空戦チットで「特殊作戦」をドローし、さらにダイスを振って1/6の確率で発生する。日本軍はVPを得ることができる。
5月24日、隊員百数十名は12機の九七式重爆撃機に分乗(1機あたり飛行隊隊員2~3名、空挺隊隊員11~12名)し出撃。4機は発動機不調により引き返したが、8機が突入。同日22時、6機が北飛行場(読谷飛行場)、2機が中飛行場(嘉手納飛行場)に強行着陸を図った。
アメリカ軍の記録では読谷飛行場では1機が胴体着陸に成功、機体から飛び出した日本兵により付近の航空機を破壊て回り飛行場は混乱状態に陥ったとされる。
翌25日13時頃、空挺隊員の最後の1名が残波岬で射殺され部隊は全滅したとされる。
過ぎる5月22日、第32軍は南部撤退を開始する予定であり、沖縄戦の大勢も決し時期を逸した状態であったため、ここまで温存していた精鋭の空挺部隊を使うことに異議があったとされるが、最後は「死に場所を与える」ように出撃命令が下った。
出撃直前に報道班員が取材したこともあり、戦時中には珍しく出撃直前までの部隊の写真や声が多く残っていることでも知られる。
桜花
日本軍の海空戦チットで「特殊作戦」をドローし、さらにダイスを振って1/3の確率で発生する。日本軍はVPを得ることができる。
ロケット推進を用いた特攻機。アメリカ側の通称「Baka Bomb」。目標付近まで一式陸攻に搭載させ到達させる必要があったが、鈍重な爆撃機により多数のアメリカ軍戦闘機の邀撃を突破しなければならず、損害が多かった。桜花搭載時、一式陸攻は時速240キロ程度しか出せなかったという。400~500キロで飛び回る戦闘機からすると射撃の的でしかなかったであろうことは容易に想像できる。
有名なのは1回目の出撃となった神雷部隊の野中隊。18機の一式陸攻がアメリカ軍の艦載戦闘機の攻撃により桜花の発進もできずに全滅している。その後も出撃を重ねるが、母機の機体不良など問題が多く戦果はあまりあげられていない。沖縄戦の途中から出撃は取りやめ、本土決戦用に温存された。
彗星薄暮攻撃
日本軍の海空戦チットで「特殊作戦」をドローし、さらにダイスを振って1/3の確率で発生する。日本軍はVPを得ることができる。
1945年2月に編成された夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」による攻撃を指すものと思われる。
菊水作戦
日本軍の海空戦チットで復数枚あるチット。ダイスを振って成功するとVP(1~2VP)が発生する。アメリカ軍の海空戦エリアに「水上艦」チットがある場合はVPの代わりに水上艦へ損害を与える場合もある。
4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで行われ、陸海両軍の航空隊が参加した。海軍機は940機、陸軍機は887機が特攻を行った。海軍では2,045名、陸軍では1,022名が特攻により戦死したが、連合軍も約10,000名の兵士が死傷し、36隻の艦船を失い368隻が損傷するといった甚大な損害を被った。
大和特攻
日本軍のイベントチットのひとつ。戦艦大和を中心とする日本艦隊の水上特攻。ダイスの目によりVPを得ることがある。
攻勢命令
日本軍のイベントチットのひとつ。敵ZOC内にいる日本軍はすべて攻撃をおこなわなければならない。「攻勢命令」チットをドローした際に八原参謀が失脚していない場合は「幕僚会議」を開催することができ、ダイス判定により攻勢を中止することができる。
日本軍は八原参謀が主張した持久戦術によりアメリカ軍の進撃を遅滞させてきたが、5月3日総攻撃を実施した。八原参謀は総攻撃に反対したが、長参謀長以下他の参謀の主張を留めることはできなかった。総攻撃はすぐさまアメリカ軍の反撃にあい、5月4日夜にはその失敗は明らかになり、5日牛島総司令官は長参謀長を介さず、八原に中止命令を告げ、以降、軍の指揮を八原の方針に一任するとした。
総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと言われる。
(つづく)