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「GUADALAJARA」(MMP)を試す(1/3)背景

年末年始で重いゲームが続いたため、軽めのゲームとしてMMP社のStandard Combat シリーズから、スペイン内戦(スペイン市民戦争)を扱った「GUADALAJARA」を開けてみました。

Higher resolution image of the box.

 

グアダラハラの戦い

スペイン内戦ははっきり言って疎いです。
ゲームとしてはアドバンスド大戦略の最初の数シナリオがスペイン内戦だったなぁ・・といったくらい。むしろピカソゲルニカや、ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」、写真家のキャパといったスペイン内戦に直接または間接に影響されて生まれた芸術・文芸作品の印象のほうが強いかもしれません。

ja.wikipedia.org

 

グアダラハラはスペイン中部の都市、1940年当時の人口が20000人あまり(現在でも80000人程度)ということなので決して大きな街ではありません。グアダラハラの戦いは、1937年3月8日から23日にかけて行われ、最終的には人民共和国軍が反乱軍(ナショナリスト軍)とイタリアのスペイン遠征軍に対して勝利した戦闘になります。例によって日本語ウィキはないため、英語版から要約して紹介します。

en.wikipedia.org

 

グアダラハラの戦い(1937年3月8日~23日)は、スペイン内戦中に人民共和国軍(EPR)がマドリッドを包囲しようとしたイタリア軍と反乱軍(ナショナリスト軍)に勝利した戦闘。反乱軍側の主力はイタリア軍のスペイン遠征軍(CTV)だった。
戦いは3月8日にイタリアの攻勢で始まるが11日に中止された。3月12日から14日にイタリア軍は反乱軍(ナショナリスト軍)の支援を得て攻勢を再開するが、これも頓挫した。3月15日、共和国軍の反撃が計画され、18日から23日にかけて実行に移され成功した。

背景

マドリッドへの第3次攻撃が失敗に終わった後、スペインのナショナリスト軍のフランシスコ・フランコ将軍は、首都周辺で挟み撃ちをを目的とした第4次攻撃を継続することを決定した。Jarama川の戦いで勝利を収めたとはいえ、ナショナリスト軍は疲弊しており、作戦を遂行できる状態ではなかった。イタリア軍はMalaga占領後、楽観的で、Jaramaで人民共和国軍が受けた大損害を考慮すると、簡単に勝利を収めることができると考えていた。イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニはこの作戦を支持し、イタリア軍の部隊をこの作戦に投入することにした。

イタリア軍指揮官マリオ・ロアッタ将軍は、マドリードの防衛陣を北東から包囲することを計画した。Jarama川でナショナリスト軍の「マドリッド」軍団と合流した後、マドリッドへの攻撃を開始した。攻撃の主力はイタリア軍が担った。ナショナリスト軍の「ソリア」師団も参加していたが、最初の5日間の戦闘では何の役割も果たさなかった。
メインの攻撃はGuadalajaraとAlcala de Henaresとの間の25キロの間で始まった。この地域には幹線道路が5本通っており前進するのに適していた。このうち3つの道路はGuadalajaraに通じており、同地も戦場となることが予想された。
ナショナリスト軍の戦力は兵力 35,000 人、砲222 門、L3/33 戦車と L3/35 戦車 108 台、装甲車 32 台、自動車 3,685 台、フィアット CR.32 戦闘機 60 機であった。イタリアの戦車と装甲車は「Tank and Armoured Cars Group」(Agrupación de carros de asalto y autos blindados)として組織された。イタリアの航空機は「レジオナリア空軍」(Aviazione Legionaria)として組織された。
Guadalajara地域における人民共和国軍は、ラカル大佐の下にあった人民共和軍第12師団だけであった。彼の指揮下には 1 万人の兵士がいたが、装備はライフル 5,900丁、機関銃 85丁、砲 15門であった。T-26軽戦車1個中隊も派遣されていた。人民共和軍は反乱軍の次の攻勢は南から来ると確信していたため、Guadalajara地域は平穏な戦線と考えられており、陣地構築は行われていなかった。

File:Mapa de la batalla de Guadalajara.png

ナショナリスト軍:青矢印、イタリア派遣軍:薄紫矢印、共和国軍:赤紫矢印

 

イタリア軍の攻勢

3月8日

30分間の砲撃と航空支援の後、イタリア軍は第50共和国旅団に対して前進を開始した。豆戦車(タンケッテ:Tankette)を先頭に共和国軍の防衛陣を突破したが、霧とみぞれで視界が 100 メートル(110 ヤード)まで低下したため、攻撃速度は鈍化した。それでもイタリア軍はMirabueno、Alaminos、Castejonの町を含む10~12キロの地域を確保し、共和国軍の司令部は後退することとなった。共和国軍司令部は、歩兵と戦車中隊の増援を要請した。

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イタリア軍の豆戦車 

3月9日

ナショナリスト軍は人民共和党軍陣地への攻撃を継続した。主な攻撃は戦車で行われたが、貧弱な装備と見通しの悪さでたびたび攻撃は停滞した。人民共和党軍第50旅団は戦闘を止め離脱した。正午頃、イタリア軍の前進は第11国際旅団(the XI International Brigade)によって阻止された(エドガー・アンドレ大隊、 テールマン大隊、パリ共産党大隊からなり、主にドイツ、フランス、バルカン諸国からの兵士が参加していた)。
イタリア軍はこの日、15~18kmの地域とAlmadrones、Cogollor、Masegosoの町を占領した。夕方、イタリア軍の先頭はBrihuegaの近郊に到着し、共和国軍のラインの突破が拡大するのを待つためにそこで停止した。攻勢の停止は電撃作戦の方針と相容れないものであったが、 兵士たちには休息が必要だったのだ。
この日の共和国軍は第11国際旅団、砲兵隊2個、第12師団第49旅団の歩兵中隊2個で構成されていた。彼らの戦力は兵力1,850人、小銃1,600丁、機関銃34丁、砲6門、戦車5両であった。その日の終わりには、エンリケ・ジュラード・バルリオ大佐の元、Torijaのマドリッド-サラゴサ道路で、中央にリスター第11師団、左翼に第12師団、右翼に第14師団を配置した第4軍団を編成されるなど、多くの援軍が到着し始めていた。

3月10日

共和国軍は新たな援軍を受けた。イタリア人とポーランド人からなる第12国際旅団(ヤロスワフ・ダブロフスキ大隊とジュゼッペ・ガリバルディ大隊の2個大隊)、砲兵隊3個、戦車大隊1個であった。共和国軍の兵力は4,350人、迫撃砲8門、野砲16門、軽戦車26両であった。
午前中、イタリア軍は準備砲撃と航空支援から第11国際旅団への攻撃を開始したが、成功せずに終わった。その時点で、26,000 人の兵士、900 丁の機関銃、130 台の軽戦車、多数の砲兵部隊が戦闘に投入されていた。ナショナリスト軍は、MiralrioとBrihuegaの町を確保するが、後者の町はほぼ無抵抗で占領された。
ナショナリスト軍による第11、第12国際旅団に対する攻撃は午後中続いたが、それでも成功することはなかった。Torijaでは共和国軍側のイタリア人部隊ガリバルディ大隊との遭遇戦が発生した。小競り合いの間、ガリバルディ大隊のイタリア人はナショナリスト軍の兵士に対し共和党に加わるように勧めた。攻撃は夕方には停止され、ナショナリスト側のイタリア軍部隊は防御陣地を構築した。
その日の終わりに、ラカルは公式には健康上の理由で指揮官を辞任したが、おそらくはジュラードの下につかされたことに対する憤りからであった。第 12 師団の指揮権はイタリア人の共産主義者ニノ・ナネッティに与えられた。

3月11日

イタリア軍は第11、第12国際旅団の陣地への前進を成功させ、国際旅団は幹線道路をたどり退却を余儀なくされた。イタリア軍の前衛はTorijaの町の3キロ手前で停止した。ナショナリスト軍の「ソリア」師団がHitaとTorre del Burgoの町を占領した。

共和国軍の反撃

3月12日

リステルの指揮下にあった共和国軍は午前中に再配置し、正午に反撃を開始した。Albacete飛行場には、スペイン共和国空軍の戦闘機「チャト」(Chato: ソ連製の単座複葉戦闘機I-15の愛称)と「ラタ」(Rata: ソ連製単座単葉戦闘機I-16の愛称)が100機近く、カティウスカ爆撃機ソ連製軽爆撃機ツポレフSBの愛称。共和国軍が使用していたが、後のフランコ政権下でも接収後の同機種を1950年頃まで使用し続けた)の2個中隊が配備されていた。イタリア軍団空軍の航空機が水浸しの空港に着陸していたのに対し、アルバセテ飛行場にはコンクリートの滑走路が確保されていたため、共和国空軍はこの問題を抱えていなかった。
イタリア軍の陣地を空爆した後、T-26 と BT-5 の軽戦車に支えられた共和国軍歩兵がイタリア軍の陣地を攻撃した。ロアッタ将軍は機動部隊を移動し反撃しようとしたが、泥濘地形の中で少なくない数の戦車が擱座するか、対地攻撃機の容易な目標となったことで失われた。共和国軍の進撃はTrijuequeに到達した。イタリアの反撃は失われた地形を取り戻すことができなかった。

画像

I-15

3月13日

共和国軍のTrijuequeとCasa del Cabo、Palacio de Ibarraへの反撃が開始され、ある程度の成功を収めた。計画では、リステル指揮下の第11師団と全装甲部隊をZaragoza街道に集中させ、メラ指揮下の第14師団はTajuna川を渡ってBrihuegaを攻撃するというものであった。イタリア軍は、スペイン軍の総司令官バローゾ大佐から警告を受けていたが、この助言を無視した。メラは川を渡ることに失敗しそうになったが、地元のCNTのメンバーはどこに浮橋を設置すべきかをアドバイスした。

3月14日~17日

3月14日、共和国軍の歩兵隊のほとんどが休息し、その間に空軍は攻撃を成功させた。国際旅団はPalacio de Ibarraを占領した。その後、共和党は軍勢を再配置して集結させた。
共和国軍はこの時点で兵約20,000人、迫撃砲17門、野砲28門、軽戦車60両、航空機70機を有していた。
一方のイタリア軍とスペインのナショナリスト軍の戦力は、兵約45,000人、迫撃砲70門、野砲200門、軽戦車(L3タンクレット)80両、航空機50機を数えた。

3月18日

未明にメラ率いる第14師団はTajuna川を橋を用いて渡河した。激しいみぞれが攻撃を遅らせたが、昼過ぎには共和国空軍の活動を可能にするほどに回復した。13:30頃、ジュラドは攻撃命令を出した。リステル指揮下の共和国軍はイタリアのリットリオ師団(イタリア軍の中では間違いなく最高の部隊)に苦戦するが、第14師団がBriguegaを包囲しかかると、イタリア軍はパニックに陥って退却した。残りのイタリア兵は第11国際旅団によって一掃された。共和国軍の陣地に対するイタリア軍の反撃は失敗した。リットリオ師団の活動により、イタリア軍は組織的な撤退を行うことができ、大惨事を免れた。

3月19日~23日

共和国軍はGajanejosとVillaviciosa de Tajunaを奪還した。フランコが予備兵力を供出してLedancaとHontanaresの間の防衛線を確保したため、反撃は最終的にLedancaとHontanaresとの間で阻止された。

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グアダラハラ付近のナショナリスト

顛末

グアダラハラの戦いは共和国軍の重要な戦略的勝利として世界中で注目を浴びた。ハーバート・マシューズはニューヨーク・タイムズ紙に、「グアダラハラにおけるファシストの敗北は、ナポレオンにとってのバイレンでの敗北と同じとなった。」と寄稿した(1808年、スペインのバイレンの戦いにおいてナポレオン軍が降伏した戦いを指す)。イギリスのマスコミは「カポレットの再来」(カポレットは第1次世界大戦でイタリア軍が大敗した戦い)と呼び、イギリスの元首相デビット・ロイド・ジョージは「イタリアの撤退」と書いたため、ムッソリーニを激怒させた。

イタリア遠征軍は約3000人の兵士(一方のスペインのナショナリスト軍の損害はわずかだった)、相当数の豆戦車を失った。さらに共和国軍は、砲35門、機関銃85丁、車両67両を含む大量の物資と装備を鹵獲した。戦略的には、共和国軍の勝利によりマドリッドの包囲は阻止され、首都で決定的な勝利を得ることで共和国軍を壊滅さえるというフランコ将軍の野望を砕くこととなった。フランコ将軍は首都奪取をあきらめ、北方の地域から共和党の勢力圏を削いでいく戦略に転向した。・・・

イタリアの敗因

イギリスの歴史家ポール・プレストンはイタリアの敗因についていくつかの要因を特定している。

  • 共和国軍の粘り強さ。マラガにおける共和国軍兵は、機械化された戦列に対して対抗ができずに簡単にパニックに陥ったが、マドリードを守る組織化された共和国軍兵は質的に全く異なった。
  • 大雪やみぞれに対しイタリア軍が準備できていなかった(多くは植民地時代の軍服装備だった)
  • イタリア空軍に舗装された滑走路がなく、遠征軍の航空機は泥だらけの飛行場で身動きができなくなり、共和国軍の対地攻撃の餌食となった
  • ナショナリスト軍の戦闘参加が3月9日にずれ、その戦いぶりも活発でないなど、ナショナリスト軍の全体的な不作為があった。
  • 固定の機関銃装備しかないイタリア軍の豆戦車に対し、回転砲塔を備えたソ連製T-26は優位であった。
  • 共和国軍の反撃に備えた配備をしなかったイタリア軍司令官ロアッタの判断ミス

 

イタリアの攻勢が最低限の成功にとどまったことは、装甲部隊に適さない不利な地形環境において装甲部隊の集中投入による攻勢は、首尾一貫した歩兵の防御に対しては脆弱であることを示していた。
フランス陸軍参謀本部は、フランス陸軍の従来からの戦術ドクトリンに照らし合わせ、機械化された部隊は近代戦の決定的な要素ではないとの結論に達し、ドクトリンを形成した。ただしこの参謀本部の結論に対して、シャルル・ド・ゴールは反対の立場をとった。
ドイツ軍は、グアダラハラの失敗は指導力と計画性の産物であると結論づけたことにより、装甲部隊の扱いについてフランス陸軍とは異なる結論を導き出した。
戦闘中にイタリア遠征軍のの司令部で観戦していたドイツ軍参謀は、イタリア軍の戦闘態度を称賛している。

 

 背景の説明だけで字数が使ってしまったので今回はここまで。次回はSCSの紹介とプレイ状況を書きます。

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(つづく)

 

 

yuishika.hatenablog.com

 

 

スペイン内戦――1936-1939 (上)

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スペイン内戦――1936-1939 (下)

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