前回のあらすじ
鎌倉出立の朝、足利高氏(真田広之)は弟直義(高嶋政伸)、高師直(柄本明)を呼び、北条を討つ、と宣する。代わり終生、裏切り者の刻印を背負わなければならないと覚悟する。次に高氏は妻登子(沢口靖子)に、北条高時(片岡鶴太郎)の元に人質として負いていくことを詫びる。
幕府では出立の挨拶に立ち寄った高氏らに対して、北条高時、長崎円喜(フランキー堺)、長崎高資(西岡徳馬)、金沢貞顕(児玉清)、赤橋守時(勝野洋)ら首脳は各人各様の反応を返した。
高氏一行は足利一族の本拠地のひとつ三河に寄り、分家十九家の前で、戦の相手は北条だと宣言する。さらに高氏の祖父家時が切腹した際に残した”置文”を読む。
置文では
・・我に代わりて天下を取れ・・とあった。
ここに足利一党3600人が集結した。
京の手前、近江国では佐々木道誉(陣内孝則)の軍が不破の関を閉じていたのに対し、周囲が止めるのも聞かず、高氏は直接、道誉との交渉に向った。
道誉の予想に反して高氏の矛先は鎌倉ではなく京都。
さらに高氏は道誉に対して、これからの政治は鎌倉で東国ばかりを見ているのではなく、朝廷があり、豊かな西国を抑える京で政治を行うべきと主張する。
これに道誉は、気を変え、自分も連れて行けと高氏に言う。
高氏は京でいったんは六波羅軍の軍議に参加するが、分かれて行軍するにあたって、そのまま丹波に入り、そこで西国の足利一党と合同し、兵力一万を越える規模にまでなった。そこで高氏は旗揚げを宣言した。
その頃、鎌倉では赤橋守時邸に軟禁された登子と千寿王を救うべく、高氏の腹心一色右馬介(大地康雄)が潜入、気づいた守時に発見されるものの、守時は登子に対して、
「もはや北条の命運は尽きている、登子は高氏と共に生きよ。生きて、自分ができなかった見事な武士の世をつくってくれ」、と言い、登子を送り出した。
京都攻略
1333年5月7日、足利軍は朝のうちに、嵯峨野から大宮二条あたりまで進撃。
足利軍とあわせて先に京都で戦っていた赤松則村や千種忠顕の軍も京都南部から進撃した。夕刻には大勢は決した、とナレーションが語る。
「六波羅落としの一番乗りは赤松殿に任せておけ。すでに勝敗は見えた。戦の後が大事ぞ。無益に争うて死ぬな。家に火をつけるな。皆にそう申し伝えよ。」
高氏は直義他周囲の部下に命令する。
馬廻りの兵も出払った頃、高氏は北条仲時の旗本安藤三郎という武士に馬上、一騎打ちを挑まれる。その際に再三、「裏切り者!」と呼ばわれ動揺を見せる。
鎌倉の増援第二陣は大きく2つの軍から成っており、そのひとつが足利高氏率いる足利党で、もうひとりが北条一族に連なる名越高家を大将とする北条軍。
足利軍は伯耆国船上山への増援として丹波を越え伯耆に向かう予定であったが、名越高家は伏見のあたりで赤松則村、千種忠顕、結城親光らの軍と衝突。その際に赤松の手のものから矢で頭を射抜かれ死亡、軍は散った模様(4月27日)。
ドラマでは足利軍が攻撃をして2日で京都が落ちたというように聞こえるが、実際は3月あたりから赤松則村が数度に渡って、さらに途中、千種忠顕(本木雅弘)も加わって攻撃を行っており、それを六波羅軍がずっと防いでいた。
その均衡状態を破ったのが丹波から踵を返して攻撃に参加した足利軍ということ。
高氏が「六波羅落としの一番乗りは赤松殿に任せておけ」というのはそういった3月来の戦闘の実績を踏まえたものだろう。高氏にとってはそういう功名争いなど興味はなかったものだと思われる。
六波羅が当時どこにあったのかというと、南北でいうと四条と五条の間。東西の位置としては鴨川のすぐ東側。内裏を中心に碁盤目状に道がおかれていたのは鴨川の西側なので、その対岸すぐのところに位置していた。
六波羅南方、北方と言うので2つの場所を占めていたのかというとそういうものでもなく、同じ場所にあった模様。足利軍の進撃路をたどると、嵯峨野から東にまっすぐ7~8キロいくと二条。そこから南東に4キロ程度のところに六波羅があった。
ナレーションで光厳天皇や西園寺公宗(長谷川初範)らの持明院統が六波羅に避難していたというのは内裏からこの六波羅の場所に場所を変えていたということだろう。
西園寺公宗とその取り巻きということであれば、かつて後醍醐帝が退位し、持明院統が力をもった際に、高氏をいたぶっていたのを思い出すのでざまぁな印象。
六波羅軍は京都や近畿近郊の御家人や大番役(新田義貞も参加していた京護衛の役割の事)として京都にいた御家人が動員されたもの。中心となっていた北条軍以外は士気も高くなく、新たな足利軍の登場という状況で簡単に崩れたのだろう。
ナレーションに言う「数万と言われる北条軍は戦線を離脱、離散した。」というのがこの状況。
北条仲時は六波羅探題北方(南方は北条時益)。
六波羅陥落後、光厳天皇らを奉じ東国に落ちようとするが、近江国、今の米原あたりで野伏せに道を阻まれ、自刃する(5月9日)。
近江を言えば佐々木道誉の領地。野伏せは佐々木道誉の手の者という話もある。
新田義貞の挙兵
同じ5月7日、まだ新田義貞(根津甚八)は兵が集まらず立てないでいた。
集めて150騎にしかならない。これでは笑いものじゃ。越後の一族にも声をかけているが返事もない、と弟脇屋儀助(石原良純)がいきりたっている。
「戦になろうがなるまいがワシは足利殿と約束をしたのじゃ。鎌倉を攻めてみせると。
皆が行かぬと申すならば、ワシと岩松だけでも行く。そうでなければこの新田の面目がたたぬ。」義貞はきっぱりと言い、席を立つ。
年齢としては新田義貞は足利高氏の4つ年長。脇屋儀助の生年は高氏と同じ年ということでこの3人ほぼ同年代であった(具体的にはそれぞれの年齢は諸説ある)。
蛇足だが新田義貞の本妻は安東一族から迎え入れている。
まだ足利貞氏(緒形拳)健在の頃(また新田義貞をショーケンがやっていた頃)、安東一族のものと、貞氏に対して決起をけしかけようと来ていたのはこの姻戚関係があったから。
岩松経家(赤塚真人)がとりなす。
「短慮めさるな。足利殿は嫡子千寿王殿を我らに預けると仰せられた。その千寿王殿に東国の足利勢を全てつけて寄越すと仰せられた。ざっと数えて5000騎は固い。それが我らの兵になるのじゃ。」
「・・ワシはのう。足利殿の助けで戦をしようとは思わぬ。」
「それは違う。足利殿が御辺に助けを求めてこられたのじゃ。北条と倒すには鎌倉と京を同時に攻めねばならぬ。鎌倉は新田殿の力なくば落とせぬ、と。そう、仰せられたではないか。助けを借りたい、と。
なにはともあれ、お立ちになることじゃ。新田が立ったと天下に知らしめることぞ。さすれば東国の源氏の一族も雪崩をうって後に続くであろう。」
「たったの150騎でか?」
またも自前の兵力の話に戻って何も言えなくなる岩松経家。
そこへ鎌倉方の徴税使50人あまりが資金の強制徴収に現れる。
「またしてもか!!」
「・・これは得宗殿の命であござる。大命じゃ。」居丈高な幕府役人。
「いかに大命なれど5日のうちに銭6万貫はできませぬ。鎌倉へ、なにとぞおとりなしを・・」
義貞は病のため赤坂城包囲の陣を退いたという建前があるため、応対したのは脇屋儀助。
「大命をこばむか!・・せめて兵糧や銭に応じることくらい当たり前のご奉公であろう」
「さればこそ、我家においても去年も銭1万貫。この1月にも銭5千貫。仰せ付けのままさしだしております。」床に額をすりつけるように低姿勢で答える儀助。
「それは何もご当家だけではないわ。
・・わかった、新田殿の手で6万貫が集められぬなら、我らの手で直々にご領内の蔵を調べ、家々から挑発するまで」にべもない徴税使。
「ご無体な」
「ではお受けなされるか!・・手始めにこの新田殿の蔵から検分致しましょうぞ」
強硬手段に打って出ようとする鎌倉役人の前に割ってはいる義貞。
「まかりならぬ!」
「これは如何に?新田義貞殿は病のため北条殿の戦に参陣かなわぬ身と聞き及んでおったが、その勇ましきお姿よ。さては仮病であったか?」と嘲笑する役人一行。
「新田の蔵を徴税使風情の手にかけられる云われはない!」
「仮病男が何を言い出す。この国の守護は得宗殿ぞ。新田ごとき!その気になればいつでもつぶしてみせようぞ!」
先に刀を抜いたのは役人側。さんざん嘲笑しておいて、義貞の刀一閃切りふせられる。新田勢と徴収使一行が切合いとなり、劣勢となった役人一行はほうほうのていで逃げていった。
「義助、もはや我慢がならぬ。」義貞も覚悟を決める。
なにもここまで、というくらいに幕府方の役人は新田家に対して居丈高。新田家の実力がそれまでしかなかったということだったのかもしれないが、これが最後のひと押しになったことを思えば、完全な失政といえよう。
5月8日未明、生品明神に新田勢150人を集め、義貞は
「・・夜陰にまぎれて国府を襲い、その勢いで鎌倉に向う。途中、東国の源氏足利の一門が我らに従う。目指すは鎌倉ぞ!」と宣する。
動揺する幕府
京と上野、同タイミングで発生した謀叛の報せは鎌倉にも到着していた。
「高資、新田が謀叛とは真か?国府の孫四郎(長崎孫四郎左衛門:長崎豊泰)はいかがした?」長崎円喜(フランキー堺)が、高資(西岡徳馬)に訊く。
「・・それが不意を襲われて、討ち死にしたとの報せも、また川越まで逃げ落ちたと言う報せも・・」
「川越より北の様子の報せは、どの報せも混乱したものばかりじゃ。数万の新田勢が笛吹峠を越えたという報せも・・」金沢貞顕(児玉清)が報告する。
「数万?あの貧乏御家人の新田が?皆、頭がどうかしておるのではないか?新田ごとき、多くて1000か2000の数じゃ。こちらから7、8000の兵も送れば、済む騒ぎじゃ。」
円喜が断言する。
「しかし・・」貞顕が食い下がるが、円喜が遮る。
「それよりも、京において謀叛致した憎き足利、近江の佐々木、こたびの新田、みな源氏ぞ。それが一斉に、うちそろうて寝返ったのじゃ。他にもおるかも知れぬ。諸国の源氏は?いや寝返るかも知れぬ。案じられるのはこの事ぞ!」
「言わぬことではない。それ故、それがしは、足利は外に出すなと申したのじゃ!野に放った虎だわっ。」いつも冷静な貞顕がうろたえている。
「高資、六波羅の様子はどうじゃ?」円喜が訊く。
「さきほどの報せでは、謀叛の兵と洛中にて合戦が続いている由。」答える高資。
「千早の、楠木攻めの2万騎はいかがいたした?ん、それを京に回せば良い。そう申したはずじゃ。」
「六波羅はどうでもよい!!!」錯乱したように大声をあげる貞顕。
「京は遠すぎる。それよりも今この鎌倉に向かっている新田をまず討つべきであろう。」
そこに六波羅が9日に陥落した旨の報せがはいる。
京都から鎌倉までの早馬が3~4日だとするとこのシーンは5月12日から13日の事になる。
「都の我軍はもはや形を留めず、と。ことごとく討ち滅ぼされた、と。」
使者の言に呆然とする一同。
都陥落の余波
ナレーションに言う。
勝利に浮かれる他の叛乱軍を尻目に、京の再建や千早や他の叛乱地への対応などのための奉行所を六波羅探題跡に設置した、と。
「方々に申す。伯耆の国より帝を迎え奉る日まで、この京の都は北条殿に代わりて、足利高氏が司るものなり。」
高氏は主に足利党が並ぶ座の前で宣している。
千早城では包囲軍が撤収し、それを楠木軍が追撃するのが描かれる。
後醍醐帝が籠もる船上山では、名和長年(小松法正)が後醍醐帝(片岡仁左衛門)に奏上する。
「比叡山におわします大塔宮の勇猛なる戦ぶり、また帝がお遣わしになられた千種卿と、我が名和家の面々のめざましき働きが六波羅を滅亡に導いたとの報せでござります。何から何まで帝のご意向のなさしめたる快挙に候えば・・」
「それだけではあるまい。足利が立たねば、こうも早う六波羅は落ちまい。のう廉子」
「噂通りの源氏の頭領でござりましたな。」阿野廉子(原田美枝子)が答える。
「朕は都に帰るぞ」
名和長年の報告は赤松則村や高氏の功を外しての報告となっている。今回はまだ後醍醐帝が高氏を評価したが、この後も同じような偏った報告が続けば、話もネジ曲がるであろう。
新田義貞の進撃
挙兵翌日には利根川を越え、10日武蔵の将軍沢から笛吹峠を越え、11日女影ヶ原(川越)に達した。
途中次々と御家人が参陣したのと、越後など各所の新田一族も参加したため4000騎になったと言う。
11日昼過ぎ、一色右馬介(大地康雄)が先導する千寿王と合流する。その後、小手指原の戦い(所沢、11日)、久米川の戦い(12日)、分倍河原の戦い(15~16日)、関戸の戦い(16日)と幕府が派遣した鎮圧軍との戦闘を重ねていく。
高時の思い
「まだ生きておったのか」午睡から目覚めた北条高時(片岡鶴太郎)がひとりつぶやく。すると広間の隅で愛妾顕子や数人の女房がさめざめ泣いているのを見つけ、声をかける。
「お許しくださいませ。たった今、都より六波羅の最後の様子をしらせて参ったのです。」局(深浦加奈子)の一人が言う
「顕子の父も・・」と顕子(小田茜)が言う。
「ここにおる者たちの身よりの者が全て・・」
「死んだのか?」高時が訊く。
「皆、討ち死にされるか、ご自害なされ」
「仕方があるまい。人間が皆どうかしてしまったのじゃ。苦い・・口が苦い・・」高時。「酒だ、酒を持て」
そこへ貞顕が報告にあがってくる。
「悪い報せにございまする。小手先の合戦にて我軍が新田勢に破れましたでござりまする。」
「また負けたのか」高時。
「そればかりではござりませぬ。新田勢は日毎にその数を加え、はや武州多摩川を越え、関戸のあたりまで来る勢いとか」
「それは真か?新田へは2万を越える軍を送ったのであろう?・・なぜかかる仕儀に?」ちょうど広間に来た覚海尼(沢たまき)が口を挟む。
「・・・されば、つい昨日まで従っておりました御家人や在地の武士どもが、手のひらを返す如くに寝返ったため、我軍は総崩れとなり・・」
「では新田が強いのではなく、味方の負けは寝返り者が出たせいじゃ。」
「あ、いや、それが、そうとばかりは・・」
「他に理由は?」貞顕を問い詰める覚海尼。
「六波羅陥落の報せを聞き、それが味方の士気を一気にくじいたように存じます。」
不意に笑い出す高時。
「母上、ワシは戦は嫌いでございまする。足利や新田は戦が好きなのじゃ。戦嫌いが戦好きに勝てるわけはない。のぅ、貞顕?」
「何を仰せじゃ。戦もまつりごとのひとつ。それをこなさずして天下の得宗と申せましょうや」覚海尼は言い聞かせるように言う。
「高時はもはやまつりごとにも疲れた。何のわずらいものう、ゆっくりしたいのじゃ?我が父貞時は公平なまつりごとで名執権とうたわれたお方という。その父上に母上はこう仰せられた。何事も公平と申されるからには、嫡子と生まれるこの高時を必ず跡目におつけくだされ。・・つむじがいささか弱いからにと、無き者のようになげだされますな。・・それでこの高時は執権になり、くたくたになり、生涯名執権の父上に頭があがらず、母上に頭があがらず。・・・はてさて公平とは疲れるものよ・・・」
赤橋守時、最後の願い
「太守、太守、お願いしたき儀がござる」
遠くから呼ぶ声が聞こえる。
「あれは赤橋の声じゃ、守時が来たのだ」
立ち上がる高時を覚海尼と貞顕が口々に止める。
「会うてはなりませぬ。」
「赤橋は足利の千寿王をわざと逃した寝返り者。謹慎を命じ置いたはず。」
「ようおめおめと出てこれたものよ!・・はよう追い払え」
「太守、赤橋にござりまする」赤橋守時(勝野洋)の声に応じ立ち上がる高時。
庭には武装姿の守時が膝をつく。
「太守」
「赤橋・・」
「こたびの事、面目ござりませぬ。」
「面目ないなら何故まいった」
「なにとぞ、この守時に新田の防ぎをご命じ賜りたく。守時とて、北条一族のうち、この大事の時を謹慎のみに甘んじてただよそ目に見てはおれませぬ。」
「戦に行きたいのか?」
「なにとぞ太守へのお詫び、かつは武士として面目の上からも」
じっとお互いの目を見る高時と守時。
「なりませぬぞ!」入ってきたのは長崎円喜。「赤橋は寝返り者じゃ。妹婿が北条家に弓引くを見てみぬ振りをした謀叛の片割れじゃ。そのようなものに兵をもたせて戦に出すなぞ、言語道断でござりまする。」
「高時はそうは思わぬ。寝返り者ではわざわざワシに会いには来ぬ。
のぅ、赤橋。よう尋ねて来た。互いに信じられぬままでは、なんとも浅ましい。わけて高時は人一倍のさみしがり。ワシの陣に赤橋のごときつわものが一人増えたと思えば、心が少しにぎやかになる。行くが良い。共に鎌倉は祖先の地。御辺もワシも他に逃げていく国はない。この鎌倉を兵や馬で踏みにじるものがあらば、戦いたす他あるまい?行くが良い。」
「かたじけのうござります」
「武運を」
北条高時は時折、他の人が気づかぬ、とてつもない洞察力を発揮するところがこれまでも度々描かれてきたが、これがもっと広くに行われていたら、と思わざるを得なかった場面。
「赤橋も永の別れにまいったのじゃ。生きて帰らぬつもりぞ」
高氏の妻登子(沢口靖子)の元に、鎌倉での戦いが始まった事を知らせがはいる。
登子は、千寿王、それから敵味方に別れた兄赤橋守時の様子を尋ね、一心に祈りを捧げた。